「哲学」のレンズを通して「世界」をまなざす…QuizKnock・田村正資による初連載!
哲学研究の道へ
学部の先生との面談で、哲学的に興味を惹かれる問いは何かと聞かれた。そのときには、「初めて聞く文章でも、私たちはその意味をすんなり理解することができる。考えてみれば不思議なことを可能にしている言語や、私たちの認識について考えてみたい」と答えた。 このときの自分は、「近代言語学の父」と呼ばれるソシュールの影響を強く受けていた。ソシュールは、言葉というのはあらかじめ存在する物のひとつひとつに貼られたラベルではない、という考えを理論的に突きつめていった人だ。言葉が物に貼られたラベルだというのは、次のようなことだ。 (i)世界のほうがさきにきっちりと、ひとつひとつの物に分かれていて、私たちは言葉がなくてもそれを手に取って扱うことができる。(ii)そして、そのひとつひとつを指し示すための便利な記号として、一対一で対応する言葉を発明した。 僕の理解では、この(i)と(ii)の両方を否定したのがソシュールだ。たとえば、文化圏の違いが色の認識に影響を及ぼす、という話を聞いたことがある人もいるかもしれない。 私たちの向き合う世界がどんな切り口、どんな単位で分かれていくのか、そして、それらを私たちはどんな言葉で指し示すのか。この二つの「分節化」の仕方はあらかじめ決まったものではなく、同じ言語を操る人々のコミュニティのなかで徐々に育まれ、整備され、そしてまた改定されていく。 私たちと世界の関係は、あらかじめきっちりと定まったものではない。過去の遺産を引き継ぎながら、それを絶えず再解釈して出来上がっていくものだ、という主張を僕はソシュールの思考のなかに見出して、ただただ、とても面白そうだ、と感じた。初めて聞く言葉の組み合わせは、私たちが育った文化の遺産を利用しつつそれを再解釈する営みになっているのだ。 そこまで見えてくると、今度はそんなふうに言葉を使って世界と関わる人間の在り方のほうが気になってくる。そうして出会ったのが、メルロ゠ポンティという哲学者だった。フッサールという哲学者が創始した「現象学」の流れを汲んで、自己流に突きつめていった人だ。現象学とはつまるところ、「自分の感じ方を手がかりにして、私たちの経験の意味を明らかにする」ことを試みる学問だ。 同じ映画を友達と観に行って、友達は涙が涸れるくらい感動しているのに自分には全然響かなかったとか、サッカーボールの蹴り方をマニュアルみたいに箇条書きで説明されるよりも「こんな感じでポンと蹴る」みたいに感覚的に説明されたほうが理解できるとか、私たちはそういうところから自分たちと世界の関わりを考えることができる。 そして、メルロ゠ポンティは現象学の系譜のなかで、広い意味で彼が「身体」と呼ぶものの重要性を明らかにした、というのがいったん教科書的な説明になる。 ソシュールを経由して、メルロ゠ポンティに出会った。そして、彼を自分の専門と定めてその思想を紐解くことに没頭したのだった。卒業論文の時期が近づくと、やがて勉強は研究と呼ばれるようになり、呼び方が変わるだけで、なんだか誇らしいことに携わっているような気分になった。同時に、そこでやっていることの価値は自分で証明できなければならないのだ、というプレッシャーも感じるようになった。 メルロ゠ポンティには、主著と呼べる著作がいくつかある。そのうちの二つ、『行動の構造』(1942年)と『知覚の現象学』(1945年)を読んでいて僕が目を引かれるのは、ごくありふれた場面の記述だった。 メルロ゠ポンティの著作に出てくるサッカーの話を読んで、田村さんは小学生のころにサッカーをやっていたときのことを思い出します。つづきは『群像』2025年1月号にてお楽しみください!
田村 正資(哲学者)