「哲学」のレンズを通して「世界」をまなざす…QuizKnock・田村正資による初連載!
失恋から立ち直らせてくれたのは…
僕のからだには、パートナーと過ごした2年分の穴が空いていた。別れを告げられた直後の数日間は発作的に嗚咽がこみあげてきて、涙や声が溢れ出てきた。それまで自分だと思っていたものが、内側からどんどん崩れていくような体験だった。 この穴をとにかく埋めなければ、哲学を学び続けることはできないかもしれない。だから、とにかくいろんな友達とご飯を食べて、話して、自分と世界の繫がりを取り戻そうとした。ごくふつうの、ありふれた解決策だ。 たとえば失恋のように、なにか衝撃的な出来事があって生活が乱れるのは、異常事態ではあるがよくあることだろう。そんな状態から、ふだんはあまり価値を認めていなかった日常的な関わりを頼って「ふつう」を取り戻すのもいたってふつうのことだと思う。 ただ、大学で哲学を本格的に学ぼうと決意して進学先を決めた直後の自分にとって、失恋から立ち直るまでに自分が辿った道のりは、にわかに認めがたいものだった。 「哲学」と呼ばれる学問には、不思議なもので、それを学ぶことで自分の人格が陶冶されて人間として大きく成長させてくれるような錯覚を抱かせる魅力がある。それは紛れもない錯覚だ(しかし、錯覚がときに変化のきっかけとなるのもまた事実だ)。 哲学を本格的に学ぶのだと決意した20歳の自分は、失恋や生活苦のような「ふつう」の困難ではとうてい揺るがされない彼岸的な価値に惹かれて哲学の門を叩いたのではなかったか。だとすれば、パートナーにフラれたショックで講義にも出席できなくなっているのはどういうことなのか。 哲学が彼岸的な価値を持つのなら、此岸で自分の居場所を見失って迷子になっている──たかが失恋でなにを大袈裟な、と思っておられる読者諸賢、もう少々ご辛抱いただきたい──いまこそ、哲学はより一層輝きを増すはずではないか。高校の倫理で学んだ「昇華」がいまここで起きていなければおかしい。 ところが、まったくそうはならなかった。それどころか、立ち直るために自分が辿ったのは、友人たちにことの顚末や自分の気持ちを伝えることで少しずつ心を整理していくという、いわば定番の道のりだ。 そこには、それまで自分が学んできた哲学的な思考が介在する余地は特になかった。だとすれば、自分にとって哲学とはなんなのか。なんのために学ぶのか。そんな疑問がふと浮かんでしまうのも無理はない。それくらい、人生の分別というものがついていなかったのだ。 哲学の助けを借りるまでもなく、話を聞いてくれる友人と何もしなくても流れていく時間に身を任せるうち、いつもの調子が戻ってきた。日常に復帰することができた僕は、失恋をきっかけにして浮かんだ疑念を小脇に抱えつつも、哲学の勉強を続けた。