日本のために「アメリカとの橋渡し」をしたのに… 「外国人の愛人」として軽蔑され、身投げした「唐人お吉」の悲劇とは?
外国人の妾となったがために、終生蔑まされることになった「唐人お吉」こと斎藤きち。幕府の要請に応え、「お国のために」との思いで侍妾になったにも関わらず、世間の目は冷たく、非情なものであった。時代に翻弄された、一人の女性に降りかかった悲運。彼女を死にまで追い詰めたものは何だったのか、今一度考えてみたい。 ■冷たい仕打ちに耐えかねた不運な女性 唐人お吉という名を聞いたことがあるだろうか? 幕末の開国直前の下田において、ハリスなる駐日総領事の侍妾(じしょう/身の回りの世話をする女性)を務めた人物である。 好んで侍妾になったわけではないが、条約締結に苦闘するハリスの心の支えとなるとともに、幕府側にとっても、橋渡し役としての役割を果たしてくれるものと、一抹の希望を託された女性であった。 その役目を、彼女がどれほど果たしたのか定かではないが、両者の間における潤滑油のような役割を果たしたことだけは間違いないようだ。 それにもかかわらず、彼女の後半生は、実に悲運に満ちたものであった。奉行から命じられたものであったにもかかわらず、外国人の侍妾になったことで、世間から冷たい視線を浴びせられ、時には石礫まで投げつけられる日々が続いたのである。 人々の無知あるいは愚かさが彼女を死に追いやったと言ってしまえばそれまでだが、尊王攘夷が声高に叫ばれるようになった当時の時代背景を踏まえれば、時代に翻弄された不運な女性であったというべきかもしれない。 何はともあれ、まずは彼女の前半生から振り返って見ることにしたい。 ■支度金25両、年俸120両でハリスの元へ 「唐人お吉」とは、いうまでもなく後世の俗称である。本名は、斎藤きち。天保12(1841)年、愛知県知多郡内海において、船大工・市兵衛の次女として生まれた、ごくありきたりな少女であった。 4歳の頃、家族と共に下田へと移り住んだものの、貧しさゆえか、7歳の時に河津城主の愛妾・村山せんの家に養女としてもらわれていったようである。幸か不幸か、美しい少女だったことが、彼女の運命を大きく揺り動かしてしまった。 14歳で芸妓になったというのも、美貌あってのこと。すぐに「新内明烏のお吉」と謳われるほどの評判を得たというから、誰もが振り返るほどの美しさだったのだろう。 その後どのような経緯をたどったのか定かではないが、アメリカ合衆国駐日総領事として下田へやってきたタウンゼント・ハリスと出会った。それが、彼女の人生を大きく変えた。 ■交渉がうまく進まず、体調を崩していたハリス ハリスは、日本の開国および貿易権益の獲得を目的として、安政3(1856)年に来日。通商条約締結に奔走したものの、条約の締結を渋る幕府側とのやり取りが難航。苛立つ日々が続いていたという。 大統領からの親書を手渡そうと江戸への出府を求めるも、これまた攘夷論者に阻まれて、なかなか上手く事が進まなかった。苛立つハリスはいつしか体調を崩し、看護人を要請するまでになってしまったのである。 ところがこの時、わざわざ男性ではなく、女性の看護人を要請したことで、奉行所側がてっきり侍妾を求めているものと思い込んだようである。早速、下田の芸妓の中から、見目麗しい女性を探し始めたのだ。 幕府側としても、いつまでも条約の締結を拒否し続けるわけにもいかず、どうせ締結するとなれば、多少なりとも有利な条件で締結したいと願っていたはずであった。そのため、ハリス側からのこの申し出は、むしろ幕府側にとっても、日本側の実情を知ってもらうためにも、渡りに船というべきものであった。 ■通訳が別の芸妓を看護人にしたくて、お吉を巻き込んだ? ただし、この申し出には裏があった。実は、通訳としてハリスに同行して共に玉泉寺に滞在していたヘンリー・ヒュースケンが画策したものと言われることがあるのだ。 看護人の派遣要請とは表向きで、その実、「お福」なる芸妓と親密になったヒュースケンが、彼女を看護人として雇い入れることを目的としたものであったという。そこでヒュースケンが、ハリスと自分の看護人二人を奉行所に要請。一人はもちろんお福で、ハリスにあてがうための侍妾として、お福の芸者仲間のお吉に白羽の矢が当てられたという訳である。 (この辺りの動向は、下田宝福寺の竹岡範男住職が著した『唐人お吉物語』が詳細に記している。今回の記事も、同書を参考にさせていただいたことをあらかじめお断りしておきたい) ■恋人と無理やり別れさせられ… 問題は、お吉が承諾するかどうかであった。当時、外国人は「唐人」と呼ばれ、獣でも見るかのような目で見られていたというから、その侍妾になるなど到底考えられないことであった。 もちろん、お吉は断った。何より当時の彼女には、将来を誓い合った船大工の恋人・鶴松がいたからである。 これを危惧した伊豆奉行所組頭の伊佐新次郎(山岡鉄舟の書の師匠でもあった)が一計を案じた。お吉への説得を続けるとともに、彼女の許嫁の鶴松に対して、「お吉を諦めれば侍に取り立ててやる」との甘い囁きをもってたぶらかしたのである。 この伊佐の働きが功を奏したものか、目論見通り、鶴松の方から別れ話を持ちかけさせることに成功。お吉もとうとう根負けして、ハリスの元に出向くことを承諾したのである。 このとき、奉行所が提示したお吉の支度金は25両(約125万円)、年俸は120両(約600万円)、お福の支度金は20両(約100万円)、年俸は90両(約450万円)だったという。当時の一般的な給金と比較すれば、破格ともいうべき金額であった。しかも、送り迎えに駕籠まで用意するとの好条件であった。