日本の饅頭の元祖、塩瀬総本家第34代当主・川島英子、100歳の人生訓とは「売り方は新しい時代に応じても、味は決して変えません」
そう思っていた矢先に、なんと銀座の松屋さんから声をかけていただいたんですよ。「リニューアルするにあたって、ぜひ出店していただけませんか」と何人もの方が見えて、頭を下げてくださった。本店からも近い銀座なら場所もいい。「出させていただきます」と、すぐにお返事しました。 ところが、会社に持ち帰ったら……営業も工場も、みんなが揃って猛反対。ブライダルの引き菓子事業はうまくいっていましたしね。「何種類ものお菓子を一個二個売るような面倒くさい商売を、うちがやる必要がどこにあるのか」と。 こんなに反対されると思わなかったので、それは誤算だった。でもやらなきゃいけないのは確かだったから、反対は全部押し切っちゃった。 とはいえ、文字通りの孤軍奮闘。オープンまでの日々は本当に大変でしたよ。お店で使う包装紙のデザインやパッケージ、パンフレットに始まって、品揃えをも含めた売り場作りまで、すべて自分でやることになってしまって。 デザインなんて、もちろん初めての経験よ。でも私、そういう作業が案外好きだったみたいで、大変さを楽しんでもいました。(笑) オープン後はほかのデパートからもお話が次々に来て、松屋だけというわけにもいかず、お店は増えていきました。結果的には小売りが伸びて、引き菓子の売り上げを抜き、現在の塩瀬の屋台骨になっています。
◆こだわらない、うじうじしない 今振り返って思うのは、暖簾を守り続けるためには、伝統を踏襲するだけでなく、新しい時代に応じることも大切だということです。 私は「もの」は変えなかった。今に至るまで、材料や味、製法は伝統を守り続けています。だってそれが塩瀬の「価値」ですから。 でも売り方や売る場所、そしてお菓子のデザインは、時代に合わせて変えてきたの。古いのはいいことだけど、古ぼけちゃダメ。そのためには、時代時代の生き方を感じて、勉強して、取り入れることなんですよ、そうすれば続いていくの。 そりゃあ、簡単なことではありません。大変でしたよ、ここまでくるのは。私が社長を務めた20年の間には、「小売り」を始めただけでなく、さまざまなチャレンジがありました。 中国の杭州に何度も自ら足を運び、初代の林浄因さんの碑を建てたこと。古い実家のあったここ築地明石町に本社ビルを建てたこと。新木場に土地を買って、5階建ての立派な工場も建てました。 少し前までは工場やお店には毎日顔を出して、社員を励ましたり、商品の味をチェックしたり。もう、ハッチャキだったわね。(笑) もちろん一人でできたはずもなく、いろいろな方に助けていただきました。だからこそ周囲への感謝の念や身近な人への愛情は、きちんと表すことが大切だと思っています。手間暇を惜しまず、すべきことはきちんとすることですよ。 こういうお話をするときあふれ出てくるのは、私と塩瀬を支え続けてくれた夫への思いです。2004年に亡くなった彼に直接伝えることはできないけれども、「パパあってこその塩瀬です」と伝え続けています。
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