「とげぬき地蔵」近くには三菱の創業者も眠る…江戸期から華やかだった巣鴨
中山道との交点に開設
高架ホームの大塚駅から都電荒川線を下に見て、外回り電車は池袋-大塚間でほぼ90度右へカーブしたのを取り戻すかのように、ゆるく左転回しながら切通し区間へ入る。谷端川(やばたがわ)が削った大塚駅周辺の谷地をぬけ、ふたたび線路は台地を切り取って敷かれているのだ。 大阪のゴミと下水を一手に処理する「めちゃアートな施設」 地元で「江戸橋通り」と呼ぶ道路をくぐると、沿道に植えられているのは桜の木。いまの季節は葉を落として寒々しているけれど、春ともなれば見事な桜並木が目を楽しませてくれる。巣鴨近傍の旧染井村の一帯は、江戸期に植木職人が多く集まり、盛んに花木の交配や品種改良が行なわれた。花見の主役となっている「ソメイヨシノ」も、エドヒガンとオオシマザクラの交配種といわれる。 国道17号線(白山通り)の下を通過すれば巣鴨駅に到着である。17号線は東京都中央区と新潟県とを結ぶ幹線道路だが、群馬県までは往時の中山道に相当する。つまり巣鴨駅は、中山道との交点に設けられたのだ。開業は池袋や大塚駅と同じ1903(明治36)年4月1日。田端と「品川線」(赤羽-品川間)をつなぐ「豊島線」の中間駅として、日本鉄道の手により開かれた。 江戸時代、日本橋をたって中山道に進路をとると最初の宿場は板橋となるのだが、いささか距離があった。そのため途中の巣鴨は、「立場(たてば=休憩所)」として鉄道が通る前から賑わっており、その様子は『江戸名所図会』にも描かれているほどだ。 現在の巣鴨駅は大塚駅と同様、1面2線のホームに電車が発着する簡素な構造である。ただし、大塚がホームから下って改札へ向かう高架駅なのに対し、巣鴨は切通しにつくられているので、改札へは階段やエスカレーターを上がる橋上駅となっている。
珍しくなったホームの売店
ホーム上では珍しく、「New Days」の店舗を見かけた。かつてのキヨスクだ。駅の売店の歴史は古く、新橋-横浜間に初めて汽車が通じたときから新聞販売の店があった。昭和の時代に入って路線網の充実とは裏腹に、鉄道の作業現場で死傷事故がめだってくると、犠牲者の家族や公傷者の生活を維持するために鉄道弘済会の制度が整えられた。駅売店を収益源とするとともに、殉職者遺族に働く場を提供する目的で、売店は数を増したのである。 しかし、国鉄の分割民営化にともない売店事業もJR各社が設立した運営会社に再編された。JR東日本の場合は現在、JR東日本クロスステーションという会社がNew Daysの展開をはかっているが、人手不足もあってかホーム上の売店はめっきり少なくなった。キヨスク全盛期には、雑誌の上に置かれた代金を収受しつつ、釣銭を求める客には神業のように暗算処理して小銭のやりとりをするなど、四方八方から伸びる手に対応してくれたベテランのおばさん店員が存在したものだ。だが、いまはどうかするとセルフレジだったりする。 湘南新宿ラインの電車が駆け抜ける、山手貨物線の向こう(南側)にレールが2線敷かれている。これは貨物の取扱いをしていた時代の側線の名残りだ。 土手際に建つ、「アーバンハイツ巣鴨」という白亜のマンションも、貨物の跡地を活かした産物。国鉄時代の末期、遊休地の活用策としてマンション開発事業が浮上し、ノウハウをもつ民間デベロッパーにも出資を求めて設立されたのが「山手開発」という会社だった。新大久保-高田馬場間の国家公務員宿舎跡地の再開発と並ぶ、中曽根康弘内閣時代の“民間活力導入”プロジェクトを手がけたのだ。A・B2棟からなるマンションはA棟が1985(昭和60)年3月に竣工、即日完売の人気を博した。B棟は賃貸マンションである。