「とげぬき地蔵」近くには三菱の創業者も眠る…江戸期から華やかだった巣鴨
相互乗入れ先に窮した地下鉄三田線
巣鴨駅には都営地下鉄の三田線も通じている。当初は「6号線」と路線番号で呼ばれていたこの地下鉄は、1968(昭和43)年の建設省告示で桐ヶ谷(品川区)-大和町(現在の埼玉県和光市)間を結ぶ30.5kmの路線として計画されていた。桐ヶ谷で東急池上線と、さらに大和町では東武東上線と結ばれて、それぞれ相互直通運転することが見込まれていたのである。 ところが、東急は田園都市線の延長や渋谷-二子玉川間の新線(新玉川線)の建設が急務だとして、6号線への接続を断った。また東武も、東上線の乗入れ先を新たに計画された13号線(のちの副都心線)へ鞍替えしたいと申し出たことから、6号線の両端は宙に浮いてしまった。 結局、東京都は6号線を単独路線として建設せざるを得なくなり、1968(昭和43)年12月、建設中だった志村(現高島平)-巣鴨間をまず開業させた。1972(昭和47)年に日比谷まで延伸、翌年には三田へ伸ばして1号線(浅草線)との乗換えを可能にした。末端区間の高島平-西高島平間が延長されたのは、1976(昭和51)年5月であった。なお、6号線が「都営三田線」と命名されたのは1978(昭和53)年7月で、都営浅草線・都営新宿線と合わせて路線名称が定められたのである。 その後20年以上も三田線には動きがなかったのだが、2000(平成12)年になってようやく三田-目黒間が開通し、東急の乗入れ相手は目黒線に変わり相互直通運転が始まった。さらに現在は東急新横浜線と相鉄新横浜線がつながったことで、海老名-西高島平間を直通する相鉄車両まで見られるようになったのである。 地下鉄の出入口は、有名な「とげぬき地蔵」へ至る舗道にも設けられている。そちらへ向かう前に、JRの改札口を背に右手の北口から線路に並行する道を駒込方面へ行くと、三菱スポーツクラブのグラウンドが現れる。角を曲がりグラウンド沿いに進めば、今度は三菱の屋内スポーツ施設。近くには三菱重工業の社宅もあり、付近が“三菱村”だと知れる。 それもそのはず、あたり一帯の12万坪に及ぶ土地は、三菱財閥の祖、岩崎彌太郎が1878(明治11)年に買い上げ、私有していたのである。いまは山手線が敷かれて土地は分断、細分化されて三菱関連の名義は少なくなったものの、彌太郎は大名庭園を修築した六義園(りくぎえん)を中心に、園の面積の約3倍にもあたる地所を手に入れていたのだ。 六義園の話は次の駒込駅の稿に譲るとして、屋内スポーツクラブの先、小学校の隣りには、長い塀に囲まれた大きな邸宅と見える、閉ざされた門扉が待ち受ける。じつはこの奥、染井霊園に接した地に、1885(明治18)年2月7日に胃がんのため享年52の盛齢で没した彌太郎の墓があるのだが、現在、墓所の一般公開はされていない。