「とげぬき地蔵」近くには三菱の創業者も眠る…江戸期から華やかだった巣鴨
「とげぬき地蔵」の賑わいは駅開設から
岩崎彌太郎の墓所入口をあとに、白山通りへ出る。途中に都営バスの車庫があるが、ここは都電の巣鴨営業所(車庫)の跡地である。都電は1966(昭和41)年に志村橋と結んだ41系統が、翌年には志村坂上から巣鴨車庫前を経由して神田橋へ至る18系統が、さらにその翌年に営業所としては最後の、巣鴨車庫前から白山通りを走り神田橋や大手町を経て田村町一丁目まで旅客を運んだ35系統が、それぞれ廃止されていったのだ。 白山通りを渡ると、ちょうど地蔵通り、すなわちそこは旧中山道の入口である。まず目に入るのは、「江戸六地蔵」のひとつに数えられる「胴造(どうづくり)地蔵菩薩坐像」が屋外に鎮座する眞性寺(しんしょうじ)。いま、巣鴨の地蔵といえば「とげぬき地蔵」として親しまれる高岩寺(こうがんじ)を指す場合が多いけれど、江戸時代には眞性寺のそれが名高かった。1714(正徳4)年に建立され、高さ約2.7mもある地蔵尊に、中山道を下る旅人たちは道中の安全を祈願したのである。 では、「とげぬき地蔵」はいつから名をなすようになったのか。もともと高岩寺は、1596(慶長元)年に神田明神の裏手に創建された古刹(こさつ)である。しかし、江戸期の“振袖火事”(1657年に江戸の大半を焼き尽くした大火)で焼失したため現在の上野駅前へ移転、さらに1891(明治24)年に上野駅の拡張整備にともない巣鴨の地へ移ったのだ。そのころの高岩寺は、参拝者が減り寂れていたようだ。 転機が訪れたのは、日本鉄道による巣鴨駅の開設だった。当時の住職が「とげぬき地蔵」と記した傘を駅に備えて貸し出したり、それまで月一回だった縁日を「四」のつく4日・14日・24日の三回に増やし、しかも露天商を誘致するなど積極的に地蔵尊のご利益を広めた結果、賑わいを取り戻していったと、巣鴨駅前商店街振興組合発行の小冊子『巣鴨歴史散歩』にある。 10月14日――この日は「鉄道の日」でもあるのだが――の縁日に地蔵通りを歩いてみると、昭和レトロの雰囲気ただよう商店街にくわえ、道の片側には露天商も店を連ね、のぞき込む客で混雑していた。だんぜんお年寄りが多いとはいえ、若いカップルもちらほら。まっ赤な肌着を売る店など、誰が買うのかと思うけれど、それなりに商売になっている模様だ。 人込みのなかを15分もぶらつけば、都電荒川線の庚申塚電停に行きあたる。
辻 聡