事実とフィクションの融合物、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』はこうして誕生した
文・写真/織田村恭子(海外書き人クラブ/アイルランド在住ライター) ドラキュラ伯爵が鋭い歯で人間の血を吸う映画『ドラキュラ』は、ブラム・ストーカーが1897年に発表した小説が土台だ。ルーマニアの貴族ドラキュラ伯爵はロンドンの不動産を購入し、手続きに英国の弁護士が伯爵の城に送られる。弁護士は伯爵が吸血鬼であることに気づくが、城に囚われてしまう。その間に伯爵は英国に行き、弁護士の婚約者や友人たちに近づくものの、正体を見破られ最後には滅ぼされるという物語である。 写真はこちらから→事実とフィクションの融合物、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』はこうして誕生した ドラキュラのモデルは15世紀ルーマニアに実在したヴラド3世と言われるが、ブラムが残した執筆記録に、ルーマニアの歴史や民話の記載はあれど、ヴラド3世への言及はない。それではブラムは、いったいどこから『ドラキュラ』のアイディを得たのだろうか。
寝物語は怪談で
1845年にアイルランドで始まった大飢饉は連日、多くの死者を出し、首都ダブリンにさえ道端に死体が転がっている有様だった。船賃を払える者たちが、移民船でアメリカ、カナダ、オーストラリアへと逃げ出す中、北ダブリンの中流階級地域でブラムは生まれる。時は飢饉がとりわけ峻烈を極め“ブラック47”と呼ばれた1847年だ。 病弱だったブラムは7歳まで寝たきりだった。母親はそんな息子にお伽話ではなく、たくさんの怪談を読み聞かせた。これによりブラムが不思議な話、とりわけ怪談に魅惑されることになったが、母の生い立ちが大きく影響している。 母シャーロットは西アイルランドのスライゴーで育った。ここは1832年にコレラで最悪の被害を出した町だ。患者は死亡と同時に埋葬されたが、実はこの町では感染を恐れて、半死半生の患者までも埋葬していたことがわかっている。その結果、まだ息のある者たちが最後の力をふり絞って墓から這い出てくることがよくあり、当時14歳のシャーロットは、この地獄の光景に後々まで苦しめられた。 またシャーロットは自身の母が亡くなる前に、バンシーの叫び声を聞いたことをブラムに語っている。バンシーはアイルランドやスコットランドに伝わる妖精で、近く死者が出る家があると叫んで予告すると言われる。 スライゴーはアイルランドで最も多くの妖精や幽霊話が残る町であり、物語の上手な語り手であった母は、自らの体験談も含めた話で、病気の息子を楽しませた。これがブラムの思慮を深め、創造性を高める手助けになったのである。