「振られても、相手のことが好きなら失恋ではない」詩人・谷川俊太郎が考える恋を失うこと、恋することの孤独とは
それだけで僕等はもう幸福
僕は恋と愛とを切り離して考えたくはありませんが、また全く混同して考えたくもありません。恋の前では僕は多少ふざけて気軽に話すことも出来る。しかし愛の前では愛の前になどと云うこと自身もう気がひけますが、僕等は愛の前にいることなど出来ない筈(はず)ですから──僕は襟を正さねばならない。 そして愛についてなら僕はもっとずっと口数少なになる。僕は本当は愛のまわりを避けて通りたかった。しかしそれはずるい考えでした。恋はおそらく恋だけでは孤独なものなのです。しかし愛は……どんな時でも、どんなところでも、僕等は生きてゆく限り常に愛にぶつかる、僕等は恋の中でも勿論愛にぶつかるのです。 そして恋を孤独な「結晶作用」としてだけ考えたりせずに、それをひととのつながりとして考えようとすれば、どうしても愛という言葉をもち出さない訳にはいかないのです。しかし今は一寸(ちょっと)愛をそっとしておきたい。僕は先ず恋から入らねばならないのです。 恋は、愛ではなく、恋は本質的に孤独なものなのではないでしょうか。 僕等は、今此処(ここ)に自分のもっているものを恋いはしない。僕等はいつも自分から離れているものを恋するのです。それは物理的な距離を必ずしも意味しない。かたわらにひとが座っていても、もしそのひとの心が遠ければ僕等は恋するのです。 恋はだから飢えや渇きに似ています。僕等は先ず自分が満たされていないことに気づくのです。そしてやがて僕等は恋すると同時に恋されるようになるかもしれない。しかしその時でさえまだ恋は満ち足りない。 心も体も一緒にいられる束の間を除いて、僕等は心の遠い時は心を恋し、体の遠い時は体を恋する、いや心とか体とか分ける以前にもう僕等の存在自体が自分をとりかこむ遠さに過敏になってしまいます。 僕等はそのために自分は自分以外の何かとむすびつこうとしているのだと思います。 しかし実は僕等は一体どれだけ自分の情念と夢の柵の中から外へ出ているでしょう。恋人の写真を前に想いにふける時、僕等は自分を孤独だとは思わないかもしれない。 しかしその時僕等は決して自分以外のものと結ばれてはいない。僕等は自分の情念の中を酔っぱらって千鳥足で歩いているにすぎないのではないか。僕等は何か自分ひとりの孤独な仕事に熱中しているのではないか。 恋は僕にとっては二重の意味で孤独なもののように思われます。第一にそれは自分とひととの間の遠さを──そしてそればかりでなくもっと得体の知れない遠さの群が自分をとりまいていることを意識させるという点で人を孤独にする、そして第二にそれは一見他とのつながりを求めているように見えながら、人をかえって自分の中に閉じこもらせ、その中でむしろ人を夢想させるにとどまるという点で孤独です。 もし人がひととのむすびつきを求めて考え、或は行動し始めたら、それはもはや恋ではなく愛かそれともまた慾望か何かほかのものになり始めるように僕には思えるのです。 もはや恋しなくなった時、はじめて本当の愛がはじまる、と云ったら抽象的すぎるでしょうか。 恋する者は自分一人だけで幸福になれるのではないでしょうか。僕等は失恋して悲しむかもしれない。しかし僕等はもともとひとりだったのではなかったか。そして恋することが出来る、それだけで僕等はもう幸福な筈(はず)です。