パレスティナ問題に考える歴史的ルサンチマン(下) 近代日本政治の振り子
大西郷のルサンチマン
そして1877(明治10)年、討幕の中心人物であった西郷隆盛が、賊軍の頭目となって命を落とす。そこに至る維新政府内の権力闘争は、岩倉具視や大久保利通など使節団組と、西郷隆盛や江藤新平など留守番組との対立が契機となっている。欧米の生活と産業すなわち西洋文明の実態を「見た者」と「見なかった者」との思考回路の違いが明白だ。西郷が、新政府の要人たちの「西洋かぶれ」にきわめて批判的であったことは、その言動によく表れている。 日本右翼の源流となる玄洋社を起こした頭山満も大西郷の心酔者であった。以後この国では、すべての点で欧米にならおうとする意志(都市化の推力)と、それに反発する感情(都市化の反力=ルサンチマン)との相剋が顕著なものとなる。 そこに立ち現れるのが「東洋」という思想だ。江戸時代までの日本では和漢すなわち「やまとごころ」と「からごころ」という思想的文化的対立構造があったのだが、巨大で苛烈な都市化のシステムである「西洋」を前にして、それに対する「東洋」をすえたのである。たとえば安岡正篤などの「東洋学」は、朱子学や陽明学といった宋・明代の儒学が基本であるが、この時代、西洋の力があまりにも強く中国の力が無視できるほど弱かったので、日本人は「東洋=日本」という心もちでものを考えたのである。政治的には、植民地化される東洋を西洋の支配から解放するという思想となり、頭山満や宮崎滔天などは、中国における革命精神の祖である孫文を助けることに奔走した。 日本右翼の本質は、西洋的な都市化のエネルギーに対するルサンチマンである。東アジアの近代ルサンチマンは、日本では「天皇制」を、中国では「革命思想」を、朝鮮半島では「反日感情」を、ヨリシロとしたといえそうだ。
昭和ファシズムのルサンチマン
大正時代の幕開けを告げる雑誌『白樺』発行のメンバー(白樺派)は、学習院を中心とする富裕な階層であった。武者小路実篤は「新しき村」を創設し、有島武郎は有島農場を解放する。いずれも貧富の差のない理想郷を目指すもので、これらは前回述べたヨーロッパにおけるサン=シモンらのいわゆる「空想的社会主義」にあたる。都市化のルサンチマンの「内部の贖罪」パターンである。 やがて小林多喜二の『蟹工船』(監獄船とも呼ばれるほど過酷な船内労働を描いた小説)に見られるようなプロレタリア文学が登場するが、マルクス主義の影響を強く受けたもので、都市化のルサンチマンの「底辺の救済」パターンである。 太平洋戦争に直結した昭和ファシズムのルサンチマンについては丸山眞男の分析によく現れている。丸山は日本ファシズムの特徴として、第一に天皇を家長とする家族主義を、第二に農本主義を、第三にアジア主義をあげ、特に東北寒村の出身者を中核とする自虐的クーデターの試みがファシズムを促進し、その際、常に、物質的に豊かな都市生活に対する農村の困窮という怨念が強調されていたことを重視している(参照・若山滋『「家」と「やど」-建築からの文化論』朝日新聞社1995年刊)。丸山の指摘をいいかえれば、昭和ファシズムの中核は、西洋的個人主義的資本主義的な都市化に対するルサンチマンということになる。 東北寒村出身者のクーデターは、主として「底辺の救済」パターンであるが、ある意味で(中枢都市と遠隔農村の経済的文化的格差)、戦後の中国、北朝鮮、ベトナムなどの社会主義化という、米国の力を受けた日本、韓国、東南アジアの資本主義国に対するルサンチマンの「周縁の戒律」パターンにつうじるものも感じられる。