戦前結婚の悲劇を忘れた愛子さまと旧皇族「縁組」案 成城大教授・森暢平
春仁と直子が結婚したのは1926(大正15)年。17歳だった直子は五摂家のひとつ、一条家の出身だった。五摂家は華族の最上位である公爵家である。明治後期から大正期、宮家の跡取りとなる男子皇族のすべては、皇族か公侯爵家の娘と結婚した。同等性の原則と呼ばれる婚姻規則により、結婚の範囲が限られたためだ。皇族の結婚は、宮内省の斡旋(あっせん)により、家格がすべてで、当人同士は「アクセサリー」にすぎなかった。 ◇夫の性的指向を雑誌手記で暴露 直子はのちに新婚生活のことを語っている。「宮さまと私の事実上の夫婦としての生活は、結婚後二年あまりで打ち切られてしまったのでした」(『婦人倶楽部』61年2月号)。直子は、夫との性的関係は2年で終わったと赤裸々に述べる。 当時の新聞、雑誌は、すべての若い皇族カップルを「仲睦(なかむつ)まじい」と描写し、閑院宮の若宮夫妻も同様だった。それは「虚飾」と直子は言う。「(春仁は)人を容(い)れぬ性格で、あたゝか味の感じられない人でございます。ですから、くつろいで面白おかしくお話したことは、ほとんどございませんでしたし、〝私は主人に愛されている〟と感じたことは、一度もございません」(『主婦の友』57年4月号) 青春時代を小田原で過ごし、軍隊での生活が長い春仁は、貴族的生活を嫌う無口な男だった。一方、一条家の「お姫(ひい)さま」として育った直子は、快活で外交的。自分の意見をしっかりと持つ直子を、春仁は遠ざけた。周囲からは「宮家の継嗣を」と望まれるが、そもそも夫婦生活がないのだから、かなうはずがない。一方、対外的には婦人会などで要職を務め、明るい性格から若手の女子皇族のまとめ役となっていた直子。和歌を作ることを趣味とし「虚飾」を生きる術(すべ)を身につけていく。 42(昭和17)年、春仁は陸軍戦車部隊の連隊長として旧満州に赴任し、直子を帯同する。直子の手記によると、ここで初めて夫の「生理の秘密」を知ったという。「同性愛というものについては、うすうす知ってはおりましたが、現実の問題として、しかも、それを夫である宮さまに直結した問題として受け取ったときは、地上のあらゆる現象が変貌してしまったような、おどろき、とまどいと混乱に突き当たって、ほんとうに苦しみました」(『婦人倶楽部』56年2月号)