韓国社会で、女性として、レズビアンとして生きる。不可視化されやすい「生きづらさ」を掬いあげたグラフィックノベル
フェミニズムを忌避する人が多いのは、シンプルに、怒られるのがいやだからなんじゃないかなと思う。あるいは、自分がいいと信じてきたものを、悪気なんてひとかけらもなかったものを、「だめ」と否定されるのが怖いから。それはフェミニズムに限った話ではなく、誰だって怒られるのも否定されるのもいやなはずなのに、男性から威圧的にされるそれは、なんとなく仕方がないことのように思えて、女性が声を上げるのは「うるさいなあ」と思ってしまう。それこそが内面化された差別なのではないだろうか。だから女性たちは、怒り続ける。違和感に声を上げ続ける。それは世界中で起きていることなのだと韓国のグラフィックノベル『ブラを燃やす。恋をする』(アルフィ:著、ハナ:翻訳/ころから)を読んで、改めて感じた。
本作は、レズビアンの視点で女性の生きづらさが描かれており、著者いわく〈3分の1は自分の話、3分の1は知り合いの話、そして3分の1は私の想像〉。でも〈多くの読者が想像で描いた部分を「これは自分の話だ」と言ってくれ〉たという。異性愛者の私ですら「この気持ち、知ってる」と感じられることがたくさんあったから、きっと当事者の人たちにはよりいっそう、寄り添い問題提起をする作品になっているのだろうなと思う。 でも、気をつけなくてはいけないのは、一部が「わかる」からといって「同じ」だと安易に理解したふりをしないことだろう。たとえば〈異性愛者の女性への片想いはレズビアンの宿命だと言われる〉という語りから始まる冒頭のエピソード。主人公の女性は、友人に想いを告げるかどうかを葛藤する。とくにその友人は、教会に通うキリスト教徒で、同性愛者を忌避している可能性が高い。韓国にはキリスト教徒の割合が高いことも含め、その葛藤は、私には想像が及ばないほど深いはずだ。また、日本以上に保守的な韓国では、そもそも女性がショートカットにすることすら奇異の目で見られるという。その意識が蔓延した社会に生きる苦しさは、やはり安易に「わかる」とは言えない。 作中に、レズビアンカップルのこんなやりとりもあった。ショートカットにした恋人に、女性が言うのだ。〈可愛く見られたいと思って何が悪いの?〉〈世の中のみんながあんたみたいな恰好しなきゃダメ?〉。同じ社会に生きる女性同士だからって、何もかもを共有できるわけじゃない。むしろ、息苦しさに対する逃げ延び方はさまざまで、社会の定義する「女らしさ」にハマっていたほうがラクな人もいる。彼女は恋人にさらに問う。〈フェミニズムがあんたを養ってくれる? 前より幸せじゃないって言ってたじゃん〉。そして恋人は答えるのだ。〈それでもバカなままでいるよりはマシ〉。 自分の傷つきに向き合って、怒りを表明して、その理解されなさに絶望するのは、誰だってつらい。「そういうもんだ」と逆らわず、不均衡にも不平等にも見ないふりをしていたときのほうが、ある意味では幸せだっただろう。でも、一度気づいてしまったものに目をそらし続けるのもまた苦しいのだ。 だからこそ、女である自分も、レズビアンである自分も、そのことによって傷つき続けてきた自分も、まるごと受け止めてくれる相手に出会えることが、尊い。ブラを燃やす、つまり社会的な女らしさを脱却しようとするのは、決して、女である自分を否定したいからではない。むしろ受けいれたいから、なのだから。誰もが互いを尊重し、心から幸せだと思える恋ができる。そんな社会が一日も早くくるように、彼女たちは、私たちは、声を上げ続けるのである。 文=立花もも