なぜ32歳の新谷仁美はここまで強いのか…驚異的日本新で1万m五輪代表を決めた理由
新谷は13年モスクワ世界選手権の10000mで5位に入るが、右踵部分のケガが完治しなかったため、14年1月に「引退」を発表。その後は、会社員生活を送っていた。しかし、17年夏にナイキと契約を結び、今度は「プロランナー」として再び、走り出した。 一時は体重が13kg増加したこともあり、カムバックの道は険しかった。18年6月にレース復帰して、徐々に調子を取り戻すも、新谷は自分が満足できるような結果を残すことができない。 昨年5月の日本選手権は鍋島莉奈と鈴木亜由子の日本郵政グループコンビに先着を許して3位に終わった。しかし、この1年で新谷はグッと力をつけていくことになる。 今年の1月に積水化学に移籍。ハーフマラソンで1時間6分38秒の日本記録を樹立すると、9月には5000mで日本歴代2位となる14分55秒83をマークした。10月18日のプリンセス駅伝と11月22日のクイーンズ駅伝では、最長3区で区間記録を1分10秒以上も更新する爆走を見せている。 「プリンセス駅伝とクイーンズ駅伝は10kmを30分30~35秒くらいで通過したと聞いていたので、今日はそれくらいのタイムが出ればいいなと思っていました」と新谷。日本記録(30分48秒89)の更新は”計算通り”だった。 では、なぜ32歳の新谷がこれだけのタイムを残すことができたのか。今回の日本選手権は様々な要素が噛み合い、驚異的な日本記録(30分20秒44)が誕生したと思っている。
一番大きな部分は横田真人コーチとタッグを組んだことだろう。横田コーチは男子800mの前日本記録保持者。新谷とは同学年でロンドン五輪に揃って出場している。新谷が復帰したときに「コーチと選手」という立場になったが、しばらくはギクシャクした関係が続いた。 引退前の新谷はひとりで戦ってきたという。しかし、“孤独な戦い”は心身ともに大きなダメージを与え続けていた。 「カンで走ってきた選手」という新谷は、「軽ければ走れる」と信じ切っていたのだ。復帰後も主にひとりで練習を続けてきたが、トレーニング量の急増と食事制限が原因でほどなく恥骨を疲労骨折する。 その後は少しずつ横田コーチのメニューをこなすようになり、新谷は変わっていった。これまでほとんどやってこなかった補強(体幹トレーニングやメディシンボールを使ったプライオメトリクス的なトレーニング、ボックスジャンプなど)を週6日実施。ストライドが大きくなっただけでなく、筋力でカバーできるような走りができるようになったという。 昨秋のドーハ世界選手権以降は、練習メニューの作成も横田コーチに一任するなど、新谷は自らが抱えてきた“荷物”を少しずつ下ろしていく。 今回の日本選手権は、「私は結果を出すだけで、それ以外のことはすべて託してきました。結果が出なければ横田コーチの責任にしようと思っていたんです(笑)」と言うくらい周囲のスタッフに全幅の信頼を置くようになった。 新谷は千葉県柏市に拠点を置く積水化学に所属しているが、日々の練習は横田コーチが代表を務めるTWOLAPSのメンバーと東京で取り組んでいる。今回は佐藤が2000m付近まで引っ張ったが、新谷の要望を聞いた横田コーチが積水化学・野口英盛監督と連携を取り、実現したコラボだった。 「私が今まで背負ってきたものを分散してくれたことが大きかったですね。ひとりでやっても平気だと思っていたし、それが当たり前だと思っていたので。それを分散することで、これだけ気持ち的に軽く走れるんだなというのをすごく感じました」