「戦争とは何だったのか…」硫黄島で死んだ父が残した「最後の言葉」
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が13刷ベストセラーとなっている。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
「アトハタノム」
僕が硫黄島報道に執念を燃やす理由。その一つは、僕が遺児だからだ。もちろん、戦没者遺児ではない。僕の父は、僕が10歳のときに勤務中に突然死した。別れの挨拶もできぬまま死別した悲しみは、46歳になった今でも癒えない。だからこそ突然、家族を失った人に対して、強烈なシンパシーを僕は抱く。 硫黄島戦は、遺児の悲劇を多く生み出した。兵士の多くが、全国各地から集められた30代、40代の再応召兵だったからだ。すでに一度、応召を果たしているため、もう戦地に行くことはないだろうと考え、家庭を築いた人は多かったとされている。 そして戦争の悲劇は代を超える。遺児は父の愛情を受けられず、母は経済的な理由で子供を養子に出さないですむように懸命に働かなくてはならないため、遺児は母と過ごす時間も十分に得られない。「片親」で育った人は当時、就職面などで差別されることが多かった。挫折を味わったり、生活が困窮したりした。さらに、孫たちは祖父の思い出を何一つ持てずに生きることになる。「終戦」とは戦闘の終了に過ぎない。「戦禍」には終わりがないのだ。硫黄島はそんな教訓が刻まれた島なのだ。 戦没者遺児の三浦さんとの交流は連載終了後も続いた。三浦さんが遺骨収集から帰るたびに僕は電話を入れ、島の状況を聞いた。年齢差が40歳以上ある三浦さんと僕は、少年時代に父を失った悲しみを共有する「遺児同士」という絆で結ばれていた。 三浦さんが最後に見たという父の姿の話も何度も聞いた。1943年、樺太(現サハリン)。当時10歳だった三浦少年は、出征する父を見送るため、港に行った。港から船が離れゆく中、父は甲板上で突然、三浦少年に向かって「手旗信号」の動作を始めた。三浦少年は小学校で手旗信号の基礎を習っていたが、父の信号の意味は分からなかった。 しかし、戦後、歳を重ねた三浦さんはある日、こう思った。「戦争中は、別れの無念さを口に出せなかった時代だ。『アトハタノム』と父は伝えたかったのではないか」。 ずっと考え抜いて、そうした結論に達したのだ。三浦さんは定年退職で自由な時間を手に入れると、遺骨収集に乗り出した。80代半ばを過ぎても硫黄島の土を掘り続けた。その背景には、父が最後に発した手旗信号に応えたい、という思いがあったのだろう。 「アトハタノム」。三浦さんから知らされた1943年の手旗信号は、時空を超えて、29歳だった僕の心にも深く刻まれた。