「国産漆の盛衰、転機は明治維新」 漆工芸品輸出奨励の一方、木を管理の藩は消滅 史談会で丹波漆理事長講演
「歴史は現地に学ぶ」との考えに基づく、福知山史談会(河波司会長)による緑陰講座が、京都府福知山市夜久野町額田の夜久野ふれあいプラザで25日に開かれた。講師はNPO法人丹波漆の高橋治子理事長。夜久野と全国の漆の盛衰史を、様々な史料と統計データを基に紹介した。 緑陰講座は、長く「市史を読む会」として机上講座を開いていた史談会が、現地へ出掛けて学びを深める場として2003年に復活させた事業。今年は、NPO理事長として府指定文化財の漆採取技術「丹波の漆掻き」を守り伝える一方、漆芸作家としても活躍する高橋さんが講師を務めた。
■縄文時代から日本の文化支え
漆器から仏像、社寺建築物といった文化財まで、塗料・接着剤として昔から幅広く使われてきた漆だが、日本での歴史は縄文時代にまでさかのぼる。福井県若狭町・鳥浜貝塚からは約6千年前の赤色漆塗櫛が出土。福知山市でも前田、日新中学校近くの八ケ谷古墳(5世紀、古墳時代中期)から、頭髪にさして使った竪櫛が出土。竪櫛は木の芯や歯の部分が腐食して消え、漆膜だけが残っていた。 江戸時代には全国で盛んに採取された漆だが、明治維新で大きな転機を迎えたという。廃藩置県により、漆の木を管理していた各地の藩が無くなった。大名の調度品需要も無くなり、漆掻き職人が急激に減った。加えて、農家が漆掻きから養蚕へとシフトしていったことも大きい。
一方で明治政府は美しい漆工芸品を外国への輸出品にと奨励。人力車から電車、砲弾などさまざまな分野で漆が使われるようにもなり、減ってしまった国産漆を補うため中国から輸入が始まった。安価な輸入漆が年々増加し、国産漆は減少していく姿が統計で見て取れる。 それでも福知山市の上川口、夜久野方面では、まだ漆の採取が続いた。当時の豊岡県庁が発給した漆掻きの商業鑑札が、上小田の個人宅に残っている。京都の漆問屋には、福知山の人たちと交わした漆の買い付け証文も残っている。講演会場で現物や写真を見せながら高橋さんは「京都で漆と言えば、丹波漆だった」と説明した。 「江戸時代の半分ほどになった」という明治の漆掻き職人。それでも明治15年(1882)に全国で5300人ほどいた。「(生活を支える職業としての採取ではなく、ごく小規模な人も含めて)今は60人ほどです」と現状を報告すると、会場から驚きの声があがった。