東京は地方より歩く街だった…「歩くことが当然」で疲れてしまう納得の理由
東京は疲れる街。こういった声は外からも内からも聞こえてくる。多くの人が東京は欲望にまみれ、カネのため、名声のために過酷な労働環境に身を置かなければならない場所として、精神的な負荷を感じているだろう。しかし同様に、物理的な負荷もある――歩き疲れる街でもあるのだ。 【写真】若者はなぜシーシャ屋へ?ブームのウラに東京の繁華街が抱える「問題」 前編で見たように、実際、他の都市に比べて歩いていることをデータで示した。では一体なぜ「歩く街」なのだろうか。その理由の一つとして考えられるのが「座れる場所がない」ということ。そして、東京という都市が発展した歴史にも関係があると考えられる。
鉄道中心に発展してきた経緯
交通技術ライターの川辺兼一が指摘している通り、東京は道路よりも鉄道が発達してきた歴史がある(「東京で道路よりも鉄道が発達した3つの理由」)。 川辺はその要因の一つとして、江戸時代の日本では馬車などの乗り物が発達せず、車両が通れる道路の整備が進まなかったことを挙げる。これによって、明治時代に近代化が進む際、新政府は道路の整備ではなく、鉄道の敷設を進めた。 整備するなら大量輸送が可能な鉄道を先に行うのが、近代化にとって手っ取り早かったからだ。特に日本の中心地となる東京では、鉄道の整備が急がれただろう。 また、こうした事情もあって、東京では東急や西武をはじめとした鉄道会社が鉄道を中心としたまちづくりを進めた。だから、街の形そのものが鉄道によって決まっていったのだ。東京の街をイメージするとき、「道路」よりも「鉄道路線」でイメージしやすいのは、そんな事情もある。「環状八号線沿いの街」より「中央線沿線の街」の方が言葉としてピンとくる人も多いはずだ。 いずれにしても、こうした歴史的な条件から、東京は車ではなく電車を中心とした街になっている。実際、東京を車で走ったことがある人は、その異様なまでの走りにくさに驚いたことがあると思う。それも、東京が車を中心とした都市の形になっていないからだ。
都電から地下鉄への流れが生んだ「垂直方向の移動」
こうした流れで、東京にはある時期まで路面電車、つまり「都電」が多く開通する。今では、早稲田~三ノ輪橋間を行き来する「東京さくらトラム(旧・都電荒川線)」だけが最後の一路線として頑張っているが、1960年の全盛期には都内に213.7kmもの都電が走っていた。 しかし、車両交通の発達とともにその数は徐々に減り、都電が走っていたルートの多くは「地下鉄」という形で地下に潜る。 というのも、当時の地下鉄のルートを決める際、都電に慣れていた沿線の住民が混乱しないように、そのルートを極力都電に合わせたからだ(梅原淳「東京の地下鉄、なぜここを走る? 背景に「都電」ルート」)。 こうして「都電」は地下に埋め込まれて「地下鉄」となり、そこに「垂直方向」の歩行が生まれた。さらに歩く距離が増えたわけである。 JRをはじめとする鉄道の水平方向の移動、そして都電に由来する地下鉄による垂直方向の移動が東京に完成した。