日本は本当に東洋なのか?――中国との関係で考える日本文化(上)
日本の公的諸制度は漢学を骨格として
日本はもちろん中国の隣国であり、文字も、宗教建築(仏教寺院)も、また都市や法律といった古代の諸制度も中国から来ているので、文化的に非常に近い関係にあることはまちがいない。先述のように地中海からペルシャ、インドを経て東アジアに至る「ユーラシアの帯」の中でも漢字と木造宗教建築による「小さな文化圏」を成している。 実は文字だけでなく、中国文化は日本語に深く入り込んでいるのだ。漢字の音読みはもともと中国語(漢語)である。このほど「令和」を万葉からとったことが話題になったが、むしろ中国の古典は日本の古典でもあると考えた方が自然なのだ。このことは、ゲルマン民族の移動後に成立したヨーロッパ諸国の古典が、現在の各国語とはまったく異なるラテン語や古代ギリシャ語の文化であることにも似ている。文化というものは国ごとにハッキリ分かれているわけではないのだ。 またあまり意識されていないが、幕末から明治期にヨーロッパ文化の諸概念に漢字熟語を当てたのは、日本語の中に漢語が溶け込んでいたから可能だったのであり、洋学が一挙に浸透したのも、漢学があったからである。夏目漱石も、少年時代に漢学か洋学かで深く悩んでおり、その悩みがああいった小説を生んだともいえる。実はこの国には「外来文明学」とでも呼ぶべきものが、古来より備わっているのだ。明治の時点で日本は、公的諸制度とその思想を、中国基準から西洋基準に入れ替えたのである。いわば「和魂漢才」から「和魂洋才」へと。
建築の基本は意外に似ていない
日本の仏教寺院の様式は中国をもととする。神仏習合により神社の様式もこれに準ずるようになっている。しかしよく見れば、中国と日本には、建築様式において大きな違いがあるのだ。 中国では、ヨーロッパと同様に椅子を使い(椅子座)、靴のまま家に入るが、日本でも、また東南アジアでもインドでもイスラム圏でも、床に座り(床座)、家の中では靴を脱ぐのが一般的であった。また中国では、寺院や宮殿は木造、庶民の家の多くは煉瓦あるいは土で壁をつくるが、日本では木の軸組に襖や障子といった紙の可動壁をはめ込む。 さらに中国では、都市そのものを高い城壁で囲う。これはイスラム圏でもヨーロッパでも同様であったが、日本では都市を壁で囲うという発想がなかった。そして中国人は北方の夷狄(いてき)が侵入するのを防ぐために万里の長城を築いた。中国とは、東は東シナ海、南は南シナ海、西はヒマラヤ山脈とそれにつづく砂漠、そして北は「長城という壁」で囲まれた国なのである。建築も、たとえば四合院のように中庭を囲うものが多く、中国とはまさに「壁で囲われた中の国」なのだ。 そういった意味で、日本の宗教建築の様式が中国から来たことを除けば、基本的な風土的な建築様式において、日本と中国はかなり異なっているというべきである。適切な表現かどうか難しいが、日本文化の樹があるとすれば、幹は中国的だが、根は純日本的なのだ。