日本は本当に東洋なのか?――中国との関係で考える日本文化(上)
大きな文化圏と小さな文化圏
「西洋では…だが、日本では…だ」という議論は、これまでのわが国できわめて一般的なものであった。建築でも「洋風建築・和風建築」と対比され、僕も「西洋は積み上げる文化、日本は組み立てる文化」と言ってきた。実はこの「西洋」の範囲が曖昧なのだが、何となく「西洋=ヨーロッパ=西欧」であると考えていたのだ。明治以来、日本は何事も西欧をモデルとして急速な都市化(=文明化)を進めてきたので、常に比較対象としていたのである。 こういったことに興味をもち、あちこち旅をしているイギリス人と話したことがある。 彼らが「west」と「east」を分ける場合、地理的にはヨーロッパとアジア、つまりイスタンブールのボスポラス海峡で分けるのが普通だが、政治的にはベルリンの壁で分けるという。その壁が崩れた今ではだいぶ様相が変化したが、基本的にカトリック、プロテスタント圏の文化と、ギリシャ正教、ロシア正教圏の文化を区別しているのである。つまりユーラシアの西の果てのイギリスから見れば、西欧の東はすべてeastということで、明らかに自己中心的な見方であるが、日本はこれに追従してきた。はるか西にあるイスラム圏を「中東(middle east)」と呼ぶのがその例である。 しかし建築様式の分布を観察すると、「西洋」はイスラム圏も含めた地中海圏と考えた方がよさそうなのだ。また以前から述べているように、そこにペルシャ(現代のイランだが歴史的にはこう呼びたい)も、インドも、またインドの影響を受けた東南アジアも含めて、石造宗教建築とアルファベットを基本とする「大きな文化圏」とし、中国、朝鮮(南北を含めて歴史的な意味)、日本などを、木造宗教建築と漢字を基本とする「小さな文化圏」とするのも自然なのである。つまり東洋を大きくとらえるのではなく、逆に西洋の方を大きくとらえるのだ。
東洋学というもの
たとえば安岡正篤氏を代表とする、中国の宋学、特に陽明学を専門とする学者は自らの研究分野を「東洋学」と呼ぶ。 陽明学は精神と行動の一致を旨とし、江戸幕府の官学としての朱子学に対抗するかたちで発達し、明治維新の原動力ともなり、昭和ナショナリズムのバックボーンともなったもので、戦後も、一部の保守政治家や経済人に強く支持されてきた。安岡氏の文体は風格があって魅力的で、実は僕もけっこう読んだものだ。 この「東洋学」という言葉には、圧倒的な力をもつ西洋の物質文明に対し、東洋の精神文化を主張して、日本をその中心に位置づける、すなわち大東亜の盟主という気分があった。しかし僕は、まだ中国が現在のような力をもつ前に、ある国際的な比較文化の学会(西洋人が多かった)で、中国人の学者が「東洋の伝統文化」について発表するのを聞いていて、その論理が、イスラム圏もインドも、もちろん日本も無視した「東洋=中国」であることに気がついて、あまりいい気持ちがしなかった、という経験がある。 中国人にとって、東洋とはまさに中国なのだ。中国の経済的軍事的台頭が目覚ましい現在、この傾向はますます顕著なものとなり、日本人もそのことを感じざるをえないので、今では「東洋学」も影が薄くなっているように思える。 本居宣長は、純粋な日本文化を求める精神「やまとごころ」を、中国的な学問に寄り添う精神「からごころ」から切り離そうとした。国学というものである。一種のナショナリズムに基盤を置く点では東洋学と同様だが、論理的には逆である。国学はまだ中国的な学問(漢学)が支配的な時代の思想であり、東洋学は、ヨーロッパの圧倒に対して中国の力が無視できるほど小さかった時代の思想である。逆に、ヨーロッパの力が衰え中国が台頭する現在、西洋と東洋と中国と日本の文化関係も変化せざるをえないのだ。文化は常に揺れ動いている。