阪神・岡田前監督「勝った喜びよりも勇気を与えるための野球やったな」震災当時のオリックス時代を振り返る #阪神淡路大震災から30年
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から間もなく30年を迎える。節目の日を前に、未曽有の自然災害を経験した各界著名人が当時を振り返る企画「あの日、あの時」がスタート。第1回は阪神前監督の岡田彰布オーナー付顧問(67)。当時は被災地の神戸市を本拠地とするオリックスで現役選手だった。「がんばろうKOBE」を合言葉にリーグ優勝を果たした劇的な1年を振り返りながら、震災に対する思いを明かした。 【写真】当たり前だけど若い!オリックス時代の岡田顧問 ◇ ◇ 何年が経過しても忘れることはない。「そうか、もう30年もたつんやな」。岡田顧問は脳裏に焼き付いている記憶を、ゆっくりとたどり始めた。 震災発生当日は私用で高知県に滞在していた。午前5時46分。激しい揺れで目覚めた。同日は兵庫県西宮市内の自宅へ帰る予定だったが飛行機が飛ばず、翌日の便で伊丹空港へ。迎えに来た知人の車で自宅へ向かった。その道中、車窓から次々と目に飛び込んでくる光景に言葉を失った。 西宮市は最大震度7。被害は甚大だった。「伊丹(空港)はタクシーがいなくて、何百人も並んでたわ。道は陥没しとるし、がれきの中を通ったのは覚えとるな」。通常なら約30分で到着する自宅まで7時間。車内で過ごした長い時間で、変わり果てた街並みを深く心に刻み込んだ。 野球にも大きな影響があった。本拠地のグリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)は使用不可。キャンプインさえ危ぶまれる中でチームは始動した。自身は沖縄・宮古島でのキャンプ後は選手寮でも生活。野球に集中しづらい状況が続いた。 当時はプロ野球選手会の会長でもあった。シーズンについて話し合う会議のため、東京へ向かった3月20日は「地下鉄サリン事件」(※)が発生。95年は安心や安全が揺らいだ日本全体が落ち着かなかった。開幕前の球界の雰囲気は「どうやったかな」と言う。抜群の記憶力を持つ岡田顧問も記憶が曖昧になるほど、怒濤(どとう)の日々を過ごした。 それでもチーム内の雰囲気だけは、はっきりと覚えている。 「もうとにかく元気を与えようと」 オリックス移籍1年目だった94年は、イチローが史上初のシーズン200安打を達成。仰木監督の下、投打で役者がそろい、初優勝への機運が高まっていた。「イチローが前の年に打って、95年はチーム的にガーッといけそうな雰囲気はあったからな」。新年早々の大災害で大きな不利を受けた。だが、結果として充実した戦力が一層、結束を強める要因になった。 合言葉は「がんばろうKOBE」。復興への思いを記したワッペンを右袖に縫い付けたオリックスは快進撃を見せる。6月から首位に立ち、2位・ロッテに12ゲーム差の独走Vだった。 「どっちか言うたら、俺らは勝った喜びよりも、被害を受けた人に何か勇気を与えるための野球やったな。まだ震災も(復興が進んでいなかったから)な。プレハブに住んだり、体育館にいる人もおったから」 そう振り返る岡田顧問は、ファンの姿が印象に残っているという。「お客さんがすごかった。ほんま盛り上がったよ」。“イチローフィーバー”前だった94年の開幕直後は、「開門後は外野席に5人ぐらいしかおれへん。『開門してんの?』って聞いたもんな」と苦笑いしながら振り返るスタンドが、95年は試合を重ねるたびに埋まっていった。チームを乗せた熱狂は、復興へ突き進むエネルギーになるとも感じた。自身は現役最終年。阪神でも得られなかった貴重な経験だった。 間もなく震災発生から30年を迎える。心身に傷を負った被災者は今後も哀悼の意を示し、記憶を語り継いでいくだろう。ただ、岡田顧問は震災後に生まれた人に対しては違う思いを抱く。 阪神監督だった23、24年も1月17日に選手らと黙とうしたが、04~08年の第1次政権との変化を感じたという。「今の選手はほとんどが生まれてないし、分からんもんな」。震災を体験した人と、伝え聞く人に生じる埋めがたい差があった。 未体験の人では、どうしても言葉や資料だけで、被災者の感情など全ては理解できない。それぞれの立場で、気持ちに違いがあるのは当然のことだ。 だからこそ、岡田顧問は10代、20代の人たちには常に前を向いていてほしいと願う。被災者から得た知識や、交流を通して芽生えた感情を基に、前進し続けることが未曽有の大震災を風化させないことにつながると信じている。 ※地下鉄サリン事件 1995年3月20日午前8時ごろ、東京の地下鉄丸ノ内線、日比谷線、千代田線の5車両で、神経ガスのサリンがほぼ同時に散布され、乗客乗員ら13人が死亡、6000人以上が重軽傷を負い、多数が病院に運ばれた。警視庁はオウム真理教の犯行とみて22日に強制捜査に入った。 ◆阪神・淡路大震災 1995年1月17日、午前5時46分、兵庫県南部地震が発生し、国内史上初の震度7が観測された。関連死を含めた死者は6434人、住宅被害が約64万棟。政府は2月、「阪神・淡路大震災」と命名した。経済被害は甚大で住宅、店舗、工場などの建築物は約5兆8000億円、港湾や道路などの社会基盤が約2兆2000億円など、総額9兆9268億円にのぼった。全国から義援金が寄せられ、当時としては戦後最多となる約1793億円が集まった。また、全国から多くのボランティアも駆け付けた。 ◆1995年のオリックス 仰木彬監督2年目のシーズン。序盤は首位の西武を追いかける展開だったが、6月に首位浮上。最終的には2位ロッテに12ゲーム差をつけて優勝した。オリックスになって初、前身の阪急時代を含めると11年ぶり11度目のリーグ制覇。日本シリーズはヤクルトに1勝4敗で敗れた。 投手は野田浩司、星野伸之、長谷川滋利、平井正史の4人が2桁勝利をマーク。平井は最優秀救援投手と最高勝率の2冠を手にし、新人王にも選出された。佐藤義則はNPB最年長記録(当時)となるノーヒットノーランを達成した。野手はイチローが首位打者など5冠に輝き、2年連続でMVP受賞。田口壮、小川博文、中嶋聡らが打線を支えた。 ◆岡田 彰布(おかだ・あきのぶ)1957年11月25日生まれ、67歳。大阪市出身。現役時代は右投げ右打ちの内野手。北陽(現関大北陽)から早大を経て79年度ドラフト1位で阪神入団。85年にリーグ優勝貢献。94年オリックス移籍後、95年現役引退。新人王(80年)、ベストナイン、ゴールデングラブ賞各1回(いずれも85年)。2004年阪神監督就任し05年にリーグ優勝。08年退任。10年から12年途中までオリックス監督。デイリースポーツ評論家を経て23年に阪神監督に復帰してリーグ優勝と日本一。24年に退任し現在はオーナー付顧問。