「水ダウ」と「新宿野戦病院」。新型コロナパンデミックの「ナラティブ」の描き方【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
■「水ダウ」の例 まずは「水ダウ」。この番組では、「コロナ対策、いまだに現役バリバリの現場があっても従わざるを得ない説」と題して、ドッキリの仕掛け人の番組スタッフとタレントが、マスクにフェイスガード、検温や消毒、アクリル板といった過剰な「コロナ対策」を意図的に行ない、仕掛けられたタレントがそれに戸惑う様子が映し出された。 しかし、言うまでもなくこれらの「コロナ対策」の大半は、現在も医療従事者の間で行なわれている行為である。最近でこそ、そのようなシーンを大手既成メディアで目にする機会はほとんどなくなった。しかしそれは、新型コロナに関する報道自体がほとんどなくなったからであって、これらの「コロナ対策」が過去の遺物となったことを意味するものではない。 連載コラムの26話でも言及したことがあるが、感染症も地震や津波と同じ、自然災害のひとつである。それにもかかわらず、なぜこうしたドッキリがまかり通ってしまうのだろうか? それはおそらく、新型コロナパンデミックという災厄について、多くの人が思いをひとつにするような「ナラティブ」が生まれづらいために、きちんとした「教訓」が形成されていないからではないか? と私は考える。人々の間でそういう認識がないために、この番組の制作者も、「それはドッキリとして成立しない」「それは不謹慎では?」という考えに至らなかったのではないだろうか。 それはちょうど、まだ道徳がきちんと身についていない子どもが、教室の床を一生懸命水拭きしている子どもや、手をあげて横断歩道を渡る子どもを笑いの対象にすることに似ている。そういう意味においてこの番組は、感染症の「教訓」の欠如による被害者といえるのかもしれない。
■「新宿野戦病院」の例 一方の、テレビドラマ「新宿野戦病院」である。このドラマは、新型コロナを題材にしているのではなく、「ルミナウイルス」という架空のウイルスによるパンデミックを、ドラマ後半の10話と最終話で描いているのだが、新型コロナパンデミックのオマージュであることは明らかである。2020年の始め、第1波の頃の記憶を呼び起こすようなシーンが散見された。 配られたマスク、なんとかキャンペーン、路上飲み、20時までの時短営業、デタラメな数値を示す赤外線検温計などなど、新型コロナパンデミックの中で誰もが一度は思ったことがあるような出来事を、クスッと笑えるシーンに昇華していた。 そして最終回では、このドラマの主役である小池栄子が、次のようなセリフを発していた。「ウイルスを運んだのは人間。でも、犯人探しには意味がない。特定の誰かを悪者にしてはいけない」。 ――ここに、このドラマの脚本を務めた宮藤官九郎の、コロナ禍に対するメッセージが込められていた。つまりこれこそが、パンデミックの「教訓」。言い換えれば、このドラマそのものが、新型コロナパンデミックの記憶をつむぐ「ナラティブ」として機能していたように私には映った。