「道頓堀プロレス」が旗揚げ1周年、代表の空牙選手に聞く/大阪
今、地域プロレスがアツい。大阪にはプロレス団体がいくつかあるが、最もアツいのが「道頓堀プロレス」と言っても過言ではないだろう。道頓堀プロレスは、大阪を中心に活動するプロレス新団体。2013年4月、それまで所属していた「大阪プロレス」を退団した空牙選手が、旗揚げしたもので、昨年9月1日に正式に誕生した。古巣の旧本拠地を道頓堀アリーナとして再生させて6月から自主興行を開催。7月には運営組織「道頓堀エンターテイメントシステム(DES)」を設立し、週末を中心に興行を行ってきた。空牙選手がミナミで再始動したため、キタの「大阪プロレス」とともに“南北プロレス戦争へ突入”とも言われていたが、大阪プロレスは昨年4月に常設会場(ナスキーホール梅田)を閉鎖。所属選手を失った。そのため、今や大阪プロレス所属だった選手が、何人か道頓堀プロレスに移ってもいる。満を持しての旗揚げとなったわけだが、代表の空牙選手にプロレスラーになった経緯や、大阪プロレスのこと、今後の方向性など、アツい思いを語ってもらった。
関西に戻ってやるのもいいかなと思って
―プロレスラーになったきっかけは? 子どもの頃、テレビでタイガーマスク(初代)を見て。アニメじゃじゃない、新日本プロレスでデビューしたタイガーマスクを見たのがきっかけです。それから憧れた。自分は和歌山出身なんですけど、和歌山にプロレスって来ることがなくて、ナマで観に行ったことは少ないんですけど、金曜の夜8時のテレビをずっと観てました。スポーツは剣道、野球、陸上をやってました。プロレスとはぜんぜん関係ないんですけど、中学校を卒業して上京してプロレスラーになりたかったんです。でも、それは親に止められて。とりあえず高校だけは出てくれって。 仕方ないんで、高校3年間で、もともと身体も細かったんで、身体を大きくしようと思って。高校3年間で20キロ体重を増やしました。卒業する頃、75キロありました。もとは55キロしかなかったんで。それから上京して、今でも入門テストっていうのがあるんですけど、まあ、当時はヒンズー・スクワット1000回とか、プッシュアップ(腕立て伏せ)50回のセットとか、メニューがあった。そういうのがクリアできてから、テストを受けました。 ―東京で活躍後、やがて大阪プロレスに入団したのは? 1995年10月、SPWF所属としてデビューしました。その後、2006年10月、大阪プロレスに正式入団。当時、大阪プロレスの社長さんだったのが、スぺル・デルフィン選手(現、大阪府和泉市議会議員)です。自分の10周年の時に試合をしたのがきっかけで、デルフィンさんに声をかけられて。実は大阪プロレスは立ち上げの頃から誘われてましたけど、その頃は東京を拠点としてましたから。で、改めて誘われて。自分も関西人なので、東京を拠点にやって行くよりは関西に戻ってやるのもいいかなと思って。