「子どもたちを守らねば」新聞記者稼業39年で積み上げた取材ノートが保育士を目指す決断に
かつての取材ノートをめくりながら事件記者としての思い出に浸るうち、まだまだやらなければならないことがあるのではという気持ちが湧いてきた。還暦を過ぎて新聞社を退社、保育士を目指すことになった緒方健二氏の著書「事件記者 保育士になる」(CCCメディアハウス)から一部を抜粋し、第二の人生への大きな挑戦を紹介する。 【写真】少年問題に取り組み、日本社会にメスを入れ続けたメガヒットコミックの原作者はこちら *** ■無理がきかなくなっていた 朝日新聞社を2021年5月31日付で辞めました。62歳と6か月でした。 その少し前に新聞社の定年年齢が65歳に延長されました。2023年11月までは制度上は働けます。でも退社することを決めました。 意向を固めたのは数か月前でした。ある未明、いつものように一筋縄ではいかぬ厄介な相手との気持ちを削り合うような長時間の取材を終え、セブンスターをくゆらせているときにふと頭に浮かんだ詩があります。 「ああ疲れた ほんとうに疲れた」 石垣りんさんの「その夜」の一節です。地道な暮らしに根差した作品で知られる詩人です。 大学を卒業した1982年に入った毎日新聞社で6年間、88年に移った朝日新聞社で33年間、通算で39年間にわたって新聞記者をしてきました。犯罪や事件、警察、反社会的勢力といった分野の担当が大半でした。 会社の草野球では長く投手兼監督を務めてきました。各社対抗の大会でふくらはぎの筋断裂を数年おきに繰り返すようになりました。約18メートル先で構える捕手のミットに糸を引くような軌道で吸い込まれていた投球が、いまやへたれの放物線を描きながら届くのがやっとです。 剣道の踏み込みも、床にそっと足の裏を置くような体たらくです。 事件取材でも、かつてのような無理がきかなくなっていました。 徹夜が続こうが高熱があろうが必死で追いかけた事件は、振り返ると数知れません。そのなかには、猛毒の化学兵器サリンが市街地でばらまかれた東京の地下鉄サリン事件をはじめとするオウム真理教による一連のテロ事件がありました。