「子どもたちを守らねば」新聞記者稼業39年で積み上げた取材ノートが保育士を目指す決断に
■地下鉄サリン事件 死者14人、負傷者6千人超を出したサリン事件が起きたのは1995年3月20日のことでした。当方は当時、36歳。朝日新聞東京社会部の警視庁捜査1課の担当で、殺人や強盗などの凶悪事件を取材していました。 その朝、警視庁にほど近い霞が関周辺は騒然としていました。多数のパトカーと救急車がけたたましくサイレンを鳴らしながら乗りつけ、警察官と救急隊員が慌ただしく走り回っていました。 出勤前の警察官宅を訪ねて捜査の進捗状況を聞く「朝駆け」取材から戻った当方は、霞ケ関駅のホームに通じる階段を駆け降りました。途中で「入るな」と警察官に止められました。事件現場ではよくあることです。常の通りに無視して進むと「死ぬぞ」と肩を背後からつかまれ、制止されました。 これ以上の強行は救助活動の妨げになりかねない。あきらめて情報を集めるため警視庁の庁舎に駆け込みました。6階の捜査1課長室に記者が殺到していました。矢継ぎ早の質問を制して寺尾正大課長が「これはサリンです。それを一刻も早く速報や号外で伝えてください。付着している衣服はすぐ脱ぎ捨てて、とも」と叫びました。 冷静沈着で知られる寺尾さんの普段と異なる様子から、事態の深刻さが伝わりました。この事件を機に全国の警察によるオウム真理教への捜査が本格化します。未曽有のテロをどう伝えるか。読者、国民の不安や恐怖を和らげるため、正確で詳しい情報を届けなくてはならない。報道機関の存在価値を問われる事態です。 取材は難航しました。犯人は誰で、どんな手口を使ったのか。動機は何か。捜査は進んでいるのか。読者のみなさまの関心に応える記事を書かなければなりません。捜査を担う警察はしばしば情報を隠します。ありとあらゆる情報を取って報じるのが警視庁担当記者の責務です。
ところが警視庁にとっても遭遇経験のない大事件で、幹部は会議室にこもって情報収集と捜査指揮にかかりきりです。当方らはほとんど接触できません。同僚らと一緒に知り得る限りの捜査関係者に当たり、断片的な情報を集めます。信用に値するかを限られた時間のなかで吟味しながら一行一行を紡ぎました。 オウム事件取材中の当方の1日は以下の通りです。 午前1時半 朝刊最終版への出稿完了↓翌日付夕刊に何を書くかの会議 午前3時 解散、仮眠 午前4時 起床、朝駆けへ 午前7時 警視庁に戻り、庁内回り 午前8時 朝日新聞ボックス(警視庁内の取材拠点)で打ち合わせ、記事執筆 午後1時半 夕刊最終版出稿終了↓昼食、仮眠 午後2時半 学者にサリン生成法取材 午後4時 朝刊出稿打ち合わせ 午後7時 夜回り取材に出発 午後9時 警視庁帰着。打ち合わせ、記事執筆、庁内回り 午前1時半 振り出しの項に戻り、以下繰り返し こんな日々が半年間続きました。家には帰れません。ウナギの寝床のような朝日ボックスか、警視庁の中にある畳部屋に潜り込み、よれよれのスーツのまま寝ていました。各社の記者も同様です。 どこも混み合っているときはトイレの個室がねぐらです。便座の上に座って仮眠を取りました。意外と休めるものです。時折、捜査員が連れ立って入ってくると聞き耳を立てます。会話が記事のヒントになりはせぬかと期待しながら。 ■記者として見てきた子どもの事件 退社に伴う煩多な手続きを終え、私物を持ち帰りました。引っ越しのたびに不要なものは捨ててきたつもりですが、段ボール箱が23個もありました。ああ、また家人に叱られる。防弾チョッキがなぜか入っていました。 最も多いのはメモ帳やノートです。数え切れないほどの事件や犯罪を取材してきました。見たことや聞いたことを書きつけたそれらは数百冊に及びます。表紙が破れ、紙が変色してくたくたになった帳面類をつらつらとめくると、当時の記憶が生々しく蘇ります。子どもが当事者になった数々の事件も思い出されました。