昭和天皇は自らの戦争責任をどう考えていたのか 「責任を取って退位するなどと考えていないことは明らか」
「自分はイギリスの制度をモデルとする」
「このことがどれほどマッカーサー元帥の方針と一致し、かつ、常識ともわがイギリスの国益とも一致するかを存じているので、陛下のこのような開明的で民主的な方針がどんなに日本と日本国民に恩恵をもたらすかをながながと力説させていただきました。しかし、このような民主的発展の道筋に、どのくらい日本国民はついていけるかを問われると、陛下は苦笑なさって『それはきわめて難しい』とお答えになりました。これには難しい要素があるので、陛下は細心の注意を払って、進めなければならないのです。しかし、陛下はもう一度イギリス王に言及して、自分はイギリスの制度(立憲君主制)をモデルとし、万難を排して追い求めていくつもりであるとおっしゃいました。 次に陛下は先の大戦を非常に残念に思っている、そして自分は常に反対していたと断言なさいました。 しかし、状況と周囲の者が余りにも強すぎた(too strong)、そして日本人が恐るべき苦痛と損害を与えたことに対し、心から悔いていると仰せになりました。 (中略)陛下はシンガポール政庁の建物は破壊されたのかとお尋ねになりました。陛下は1921年のイギリスへの往路と復路で立ち寄ったのでよく覚えていらっしゃったのです。私が損害はなにもなかったと言うと陛下はほっとしたご様子でした。(中略)私の印象は、陛下は外の空気に触れられてとてもお喜びになっている、というものでした。 直接口に出しておっしゃいませんでしたが、陛下はこれまでと同じように、強い親英感情を持っているとはっきり感じました。また、再びイギリスとコンタクトを取れる道が開けてとても喜んでいらっしゃいました。 そして、先の大戦の言語道断(outrageous)な部分については、衷心より、深く悔悟の念をお示しになりました。陛下も皇后陛下も、これ以上親しみのこもった接見はなさったことがなかったと思います」
英モデルを作る意欲満々
この会談記録を読む際に留意すべきは、昭和天皇はもはや戦争犯罪者として自身が起訴されることはないと知っていたこと、そして、キラーンとは旧知の間柄で、しかも私的な会談の中なので、恐らく本音を言っていただろうということだ。 すなわち、戦争責任については、自分は開戦に終始反対していたが、状況が切迫していて周囲の者に押し切られたと述べている。つまり、自分は宣戦の詔書を書いたが、開戦は本意ではなかったということだ。 また、なんども日本と日本人がイギリスとイギリス人に被害を与えたことに心から悔悟の情を示している。しかし、これはあくまでも日本の天皇としてのイギリスの国王と王室に対する思いだろう。責任を取って退位するなどと考えていないことは明らかだ。 事実、イギリスをモデルとして、開明的で民主主義的な立憲君主制を自分自身で日本につくることに意外なまでに意欲満々であることを示している。 さらに、侍従長の記録では、昭和天皇は一身と引き換えにしても国民を救ってほしいと言ったというが、この会談記録では、天皇が進めたいと思っている開明的、民主主義的な道筋に、国民がついてくるのは難しいだろうと言っている。軍部の横暴と独裁に国民が蹂躙されるさまをつぶさに見てきたので、これは致し方ないのかもしれない。