昭和天皇は自らの戦争責任をどう考えていたのか 「責任を取って退位するなどと考えていないことは明らか」
“東条”は削除された?
戦後初めて昭和天皇が自らの戦争責任について言及したのは、1945年にクルックホーンが送ってきた「質問状の2」への回答の中であった。昭和天皇は、「宣戦の詔書が、アメリカの参戦をもたらした真珠湾攻撃を開始するために東条(英機)大将が使ったように使うというのは陛下の御意思でありましたか」という質問に対して次のように答えている。 「宣戦の詔書を東条大将が使ったように使うつもりはなかった」 戦争責任に関わる質問なので、かなり回りくどい言い回しになっているが、要するに、昭和天皇は宣戦の詔書を書いているが、それを東条が本当にアメリカをはじめとする連合国と開戦するために使うことを承知していたかということだ。つまり、昭和天皇が書いたには書いたが、それを東条が実際使って戦争を始めるとは思っていなかったということだ。すなわち開戦は意図していなかったということになる。これは多くの研究者に戦争責任を東条へ転嫁したものだと受け取られている。 ところがその2日後の有名な昭和天皇・マッカーサー会見では次のように述べられたとされる。 「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」(『マッカーサー回想記』ダグラス・マッカーサー著、津島一夫訳) ここでは一転して、すべての戦争責任は自分にあり、それを負う覚悟だと言っている。その潔さにマッカーサーは感動したという。ただし、これは元々あった東条についての言及を、マッカーサーが削除したと推測する研究者もいる。
実際の発言かどうかには疑問が
侍従長を務めていた藤田尚徳の『侍従長の回想』では、これに次の一節も加わる。 「文武百官は、私の任命するところだから、彼らには責任がない。私の一身はどうなっても構わない。私はあなたにお委(まか)せする。どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」 ここでは、自分の身と引き換えに、文武百官と日本国民を救ってほしいとマッカーサーに懇願したとなっている。 さらに感動的な文言が付け加わっていたことになるが、実際の発言であるかは多くの研究者によって疑問視されている。 それでは、今回紹介する「昭和天皇・キラーン卿会談記録」(1948年1月25日付)では昭和天皇はどう語っているのだろうか。それは、これまで疑問とされたことに答えるものだろうか。 その前に、キラーン卿とはどういう人物で、どのような経緯があって昭和天皇と「歓談」することになったのかを説明したい。