昭和天皇は自らの戦争責任をどう考えていたのか 「責任を取って退位するなどと考えていないことは明らか」
「周囲の者が余りにも……」
キラーン卿(本名マイルズ・ランプソン、男爵)は1903年にイギリス外務省に入り、1908年から10年まで駐日イギリス大使館2等書記官を務めた。1912年の明治天皇崩御のときには、イギリス弔問団の一員として再び訪日した。1921年の裕仁皇太子訪英の際にはスコットランド旅行などの案内役を務めた。つまり、皇室関係者をよく知り、昭和天皇と一定期間親交を結んだことがある数少ないイギリス外交官だった。 なぜ、彼がイギリス人としては戦後最初に昭和天皇と会談することになったのだろうか。会談記録はそのことにも触れていて、1948年に彼がマッカーサーと東南アジアの安全保障について話し合ったとき、昭和天皇と旧知の間柄だと知った元帥が、自分が手配するから会談しないかと持ちかけたのがきっかけだった。 マッカーサーは、自分以外の人間が昭和天皇と接触し、戦争責任に関することなどについて話すのを極度に嫌ったので、アメリカ以外の国の政府関係者が昭和天皇と会見することは基本的にできなかった。 マッカーサーが、キラーンに昭和天皇との会見を勧めたのは、もはや昭和天皇が戦争犯罪者として起訴されることもなく、またイギリス政府の関係者ならば、問題となるような情報発信はしないと思ったからだろう。加えて、昭和天皇が長い間、籠の鳥状態にあったので、キラーンと若かりし頃のスコットランド旅行の思い出話をすれば気晴らしになる、という配慮もあったのかもしれない。そのようなことをうかがわせる文面になっている。
「陛下の強く望むことは……」
実は、こういった会談の背景については、日本戦略研究フォーラム研究員の橋本量則が《日英関係コラム Vol.9》「ロイヤル・ファミリーが繋ぐ日英の絆」という記事に既に書いている。だが、キラーン卿による以下の会談記録について、昭和天皇の戦争責任という観点から内容を分析するところまでは踏み込んでいない(https://www.jfss.gr.jp/article/1905)。 「天皇陛下も皇后陛下も会談中、この上ないほど友好的で打ち解けていらっしゃいました。実際、何度もそう繰り返しておられましたが、先の大戦以来初めて、イギリスからの訪問者にして旧友をもてなす機会を持てたことをたいそう喜んでおられました。 正味2時間ほど続いた会話はいっときも途切れることなく、当然ながら、1921年にイギリスを訪れたときに起こった個人的な出来事に触れておられました。この思い出についての陛下の記憶はことのほか鮮明で、いかに印象が深かったかを示すものでした。 次いで、陛下はイギリス国王夫妻と王室について、どうしているか熱心にお尋ねになりました。そして、くれぐれも国王陛下と王室の方々に宜しく伝えるようにとおっしゃっていました。 (中略)陛下は広大に拡がる大英連邦の領土と、国王と王室の素晴らしい地位を甚(いた)く羨ましがっておられました。陛下は同じような幸福なありさまをなんとかして日本でも見たいものだとおっしゃっていました。 また、このありさまこそ日本が手本とすべきものだともおっしゃいました。陛下の強く望むことは、その目標に向かってたゆまず、着実に努力すること、彼自身の地位を、彼が崇拝しているイギリス王室のモデルにできるだけ近づけることだと仰せになりました」