「生まれてくるべきじゃなかった」64年ぶりに外の世界に出た無期懲役囚、不意に流した涙
●刑務所でも凶行 2回目の無期懲役判決
半年後の1959(昭和34)年7月8日には、収監された千葉刑務所で知り合った受刑者の鈴木和男さん(当時28歳)を別の受刑者(当時25歳)と共謀して革切り包丁で刺し殺した。 バカにされたり非難されたりしたことに我慢できなかったという。 この時は検察が死刑を求刑。弁護士は「稲村は極度に興奮しやすい精神的欠陥者で、犯行当時は心神耗弱の状態にあった」と主張した。 千葉地裁は1959年10月24日、「あらかじめ事前に詳細かつ具体的に打ち合わせをしており、稲村の行動になんら精神病的異常は認められない」として2度目となる無期懲役の判決を下した。 当時の新聞には、被害者の言動が誘発した面があったとして「この事件としては情状判決となった」などと書かれている。
●「当時の日本は引揚げ者に冷たかった」
こうした凶暴性はどうやって生まれたのか。稲村さんは古い記憶をたどって語り始めた。 1933(昭和8)年5月、朝鮮の京城(現ソウル)で日本人の両親のもとに生まれる。 小学生の時、満州で終戦を迎え、1946年10月に両親とともに日本へ。知り合いを頼って東京や埼玉を転々とし、家庭は困窮した。 「当時の日本は引揚げ者に冷たかった」。稲村少年の目にはそう映った。 稲村さんは近所に住む子どもたちと豆腐を売って回ったという。自然と素行の悪い友達とつるむようになり、1950年に仲間が持ち逃げした知り合いの金を使ったことで多摩少年院に入った。 その後も窃盗や詐欺、覚醒剤使用を繰り返し、20歳で初めて刑務所に送られた。
●収監後に開き直り「どうせ出られない」
「無期なのでどうせ出られないと思っていました」 収監されると開き直った。仲の良い受刑者がトラブルを起こして懲罰を受けると、代わりに刑務官や他の受刑者を襲撃し、服役中にも別の実刑判決を受けている。 処遇困難者として北海道の網走刑務所、大阪刑務所、広島刑務所に次々と移送され、最後に送られたのが熊本刑務所だった。 特に厳しい処遇を受けたのが1960~70年代に収容されていたという広島刑務所。 保護房と呼ばれる布団だけしかない一人部屋に入れられ、両腕を背中で固定されたりお腹の前と背中の後ろで片腕ずつを固定されたりした状態で半年間を過ごした。 獄死を覚悟していたが、「惨めな人生で終わりたくない」と腕立てや腹筋などの筋力トレーニングはかかさなかったという。 タバコやアルコール、暴飲暴食や夜更かしなどとは無縁のムショ生活を長年送ったこともあり、皮肉的だが今も足取りや話し方は若々しい。