「他の作家の活躍を見ると、うらやましさに内臓がねじれる」作家・寺地はるなが、他者への憧れに苦しむ10代を描いた理由を語る
■「全面的に許す」でも「絶対的に許さない」でもない。この中途半端な状態に耐えていくのが、生きていくということ
──作中で佐賀の「浮立」という実在の伝統芸能が描かれます。寺地さんもご出身の佐賀にいた時に参加されたことはありますか? 寺地:わたしが住んでいた小さい村にも浮立というのがあって、小学校の運動会で毎年踊らされていました。音楽が流れ出すと観覧席のお年寄りが一緒に踊り出すので、もう魂に刻みこまれているのかなあ、とか思いながら見ていました。 中学生の頃はなんというか自分自身と自分の周囲のすべてが嫌で、こんなどうしようもない人間を周りの人もぜったい嫌っているに違いないと思っていて、人の目を見るのがこわかったです。 今はいい意味でいろんなものがどうでもよくなったというか、たいていのことが気にならなくなりました。10代の頃は「この人、今こんなふうに思っているんじゃないかな」「ヤダこの人さっき、わたしを見て笑った?」といちいち勘繰ってはぐったり疲れるということを繰り返していましたが、今は他人がどんなことを考えていようがそれはその人の領分なんだから好きにさせておけと思います。 ──文庫化にあたり加筆した中に、幼少期から親との関係が悪かった登場人物が、大人になって両親と再会するという場面があります。この場面を描く際に、「親を無理に許さなくてもいい」と寺地さんはお話されていました。 寺地:許すことも、許さないままで生きることも、ひとしく勇気とエネルギーを必要とすると思います。ならばわたしは、許さなくてもいい、と伝えたいと思いました。 許さないというのは、なにも「二度と会わない」というような極端な方法をとらなければならないわけではありません。親とのかかわりを続けながらも、ある点については許していない事柄がある、という人もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。わたしにもありますし、わたしの子にもあるでしょう。「全面的に許す」「絶対的に許さない」、両極端にふりきるほうが楽かもしれませんが、たいていの人はそうではないでしょう。この中途半端な状態に耐えていくのが、生きていくということなのかな、と思います。 ──物語に登場する大人で、中学生の主人公達をほどよい距離から見守る遠藤さんという人物が魅力的ですよね。毎日をより良く生きようとする姿勢や行動を「神さまへの祈り」と捉える考え方が新鮮でした。 寺地:わたしは神さまが存在するかしないかということにはあまり興味がなく、「信じる」をその人が選ぶか選ばないかだと思います。 よく近所の神社に行くのですが、ここ数年は「何々が欲しい」「何々になりたい」というお願いごとをしなくなりました。「何々が欲しいのでまず何々を頑張ろうと思っています」というようなことをぶつぶつ唱えたりしています。祈るというより自分に言い聞かせているのかもしれません。遠藤さんもそういうタイプだったらいいなと思いながら書きました。 ──現在も精力的に執筆を続けられていますが、今後描いてみたいもの、興味のあるテーマなどはありますか? 寺地:じつはもう何年も前から「書きたいもの」というのがありません。なにかしらに出会ったことで、否応なく物語がはじまってしまうのでそれを書いている、というような状態です。「なにかしら」というのはたいそうなものではなくて、店先の一枚のはり紙だったり、誰かがSNSでもらしたひとことだったりします。 ──最後に、これから本作を読まれる読者さんへ、読みどころや楽しんでもらいたいところなどを教えてください。 寺地:ふだん人には打ち明けづらい感情を「その感情、そこにあるよね」と認めてもらえるというのが小説の良いところ、だとさきほどお話ししましたが、自分にはない思考や感情に触れられるのもまた魅力だなと思いますので、そこを楽しんでいただけたらいいなと思います。 また、ある他作品の主人公がゲスト出演(? )するので、両方読んでくださったかたには「あ!」と思っていただけるのではないでしょうか。 *** 寺地はるな(てらち・はるな)プロフィール 1977年、佐賀県生まれ。大阪府在住。2014年『ビオレタ』で第4回ポプラ社小説新人賞を受賞し、デビュー。20年『夜が暗いとはかぎらない』で第33回山本周五郎賞候補。21年『水を縫う』で第42回吉川英治文学新人賞候補、同年同作で第9回河合隼雄物語賞を受賞。23年『川のほとりに立つ者は』で本屋大賞9位入賞。他の著書に『夜が暗いとはかぎらない』『カレーの時間』『白ゆき紅ばら』『わたしたちに翼はいらない』などがある。 [文]双葉社 協力:双葉社 COLORFUL Book Bang編集部 新潮社
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