「他の作家の活躍を見ると、うらやましさに内臓がねじれる」作家・寺地はるなが、他者への憧れに苦しむ10代を描いた理由を語る
『水を縫う』で河合隼雄物語賞を受賞、『川のほとりに立つ者は』で本屋大賞にノミネートされるなど、今最も注目の作家である寺地はるなさん。最新文庫『どうしてわたしはあの子じゃないの』は、寺地さんの出身地である佐賀を舞台にした、10代の少年少女たちの物語だ。 閉塞感のある田舎の村から早く出て行きたいと願う天、天に想いを寄せる幼馴染みの藤生、東京から転校してきたミナの3人がともに過ごした中学時代に、ある事件が起きる。中学卒業の前に、3人はお互いに手紙を書きあった。30歳になった天達は手紙を開封することになったが、そこに書かれていたのは──。 どのような思いを込めて本作を執筆したか、お話を伺った。
■他人と自分を比べるのは恥ずかしいことだ、と抑えつけようとすると「うらやましさ」はかえって肥大化する
──本作は、佐賀の村で育った天、ミナ、藤生という3人の男女の中学時代と、時を経て30歳になった現在の3人の姿が語られる物語です。今回の作品を執筆されたきっかけはどのようなものでしたか? 寺地はるな(以下=寺地):10代の頃というのは、自分の持っていないものと他人が持っているものがくっきりと見えて苦しいものだと思います。そしてそんなふうに思ってしまう自分を嫌悪したりもするでしょう。でも、きれいではない気持ちは誰でも持っているし、それはおかしなことでもなんでもないんだ、ということを読んだ人に感じてもらえたらいいなと思って書きました。 ふだん人には打ち明けづらい感情を共有でき、肯定とまではいかなくても、「その感情、そこにあるよね」と認めてもらえるというのが小説の良いところだと思うので。 ──思春期真っ只中の10代の視点と、大人になった視点の双方を描いてみていかがでしたか。 寺地:天、ミナ、藤生はそれぞれ性格の違いはありますが、共通点があります。自分のきれいではない気持ちから目を背けない、なかったことにしない、という点です。それは苦しい生きかただと思います。でも、そういう人のほうがわたしは好きです。 大人になったと言っても46歳のわたしから見れば、30歳の3人はとても若く、まぶしいです。もう10代ではない、でもあなたたちにはまだまだたくさんの未来も可能性もあるんですよ、と思いながら書きました。十数年後にこのインタビューを読み返したら、現在の自分自身のことも「こんなこと言ってら」とまぶしく、そして気恥ずかしく感じられるのかもしれません。 ──タイトルがすごく印象的ですが、このフレーズは作品を書く以前から寺地さんのなかにあったものでしょうか。 寺地:「どうしてわたしはあの子じゃないの」にはふたつの意味があります。文字通り、自分の持っていないものを持つ「あの子」をうらやむ気持ち。それから、「どうしてわたしはあの子のようにならずに済んだのか」という意味です。 なにか痛ましい事件が起きた時、「被害者の落ち度」について語られがちな傾向があると思います。自分と被害者の違いを見つけ、だから自分はそうはならないはずだ、と安心しようとします。でも主人公の天は「自分もこうなっていたかもしれない」と考えられるような子です。天という人物が生まれた時、タイトルも同時に思い浮かびました。 ──作中の登場人物達は、それぞれに他者への強烈な「憧れ」を持ち、時には身を焦がされながら生きています。寺地さんは、他者と自分を比べてしまうことが日々ありますか? 寺地:小説を書いている以上、他人と比べないということも、他人の評価を気にしないということも、ぜったいに不可能だと思います。他の作家の活躍を見ると、うらやましさに内臓がねじれそうになります。そんなことを思う自分を恥じたり、戒めたり、というようなことはいっさいありません。日記に「〇〇さんが〇〇賞をとった。とてもうらやましい。わたしも欲しい」「〇〇さんの本がまた重版している。うらやましい。わたしの『〇〇』も良い作品なので重版したらいいと思う」などと書き連ねます。ひとしきりうらやましがったら、そのあと原稿を書くなど自分のなすべきことをします。他人と自分を比べるのは恥ずかしいことだ、と抑えつけようとすると「うらやましさ」はかえって肥大化します。最初に好きなだけ暴れさせてやったら、徐々に落ちつきを取り戻します。