河合敦が高校教員を退職するきっかけになった「源頼朝の肖像画」問題。唯一、本当の頼朝の姿をかたどったとされる木像の顔立ちは…
◆京都・神護寺の肖像 ご存じのように源頼朝は、初めて武家政権を創設した武士。 頼朝と聞くと、40代以上の人は、目元のきりっとした端正な顔立ちを思い浮かべるはず。 それは間違いなく、京都神護寺の「源頼朝像」である。なぜなら昔の教科書には、必ずこの像が掲載されていたから。 しかし、この頼朝の肖像はだんだんフェードアウトしていく。 私が新米教師だった40年近く前の教科書には掲載されていたが、1999年の教科書を見ると「伝源頼朝像」(『詳説日本史』山川出版社)となっている。「この肖像画は源頼朝と伝えられている」という意味だ。 そしてわずか3年後、同じ教科書から頼朝の肖像は消えた。 この神護寺の肖像が、頼朝本人かどうか怪しくなったからである。
◆衝撃的な新説 その流れを決定付けたのは、美術史家の米倉迪夫氏である。 その著書『源頼朝像 沈黙の肖像画』(平凡社 1995年)で米倉氏は「源頼朝像は頼朝を描いたものではなく、室町幕府をつくった足利尊氏の弟・直義(ただよし)を描いたものである」という衝撃的な新説を発表したのだ。 じつはそれ以前から肖像の冠や簪(かんざし)の形から、鎌倉後期から南北朝時代に作製されたとする説があったが、なぜか真剣に討議されなかった。 だが米倉氏が自説を発表すると、美術史学会や歴史学会は大きく反応し、反論や賛同が相次ぎ、大論争に発展した。 米倉氏は、頼朝像の眼や口、耳など顔のパーツの描き方に着目し、無等周位(むとうしゅうい)が描いた夢窓疎石(むそうそせき)像(妙智院蔵)との類似点を指摘、疎石像が14世紀の絵画であることから源頼朝像も同じころの作品だと断じたのである。 そのうえで米倉氏は、1345年の「足利直義願文(がんもん)」(京都御所の東山御文庫所蔵)に、神護寺に「征夷将軍(足利尊氏)ならびに予(足利直義)の影像を図き、以(もっ)てこれを安置す」とあり、そのとき奉納した直義の肖像こそ、これまで頼朝像とされてきたものと論じたのである。 確かに頼朝像の画中には、像主(モデルの人物)の名は記載されておらず、当人を描いたことを確実に証明できない。 なのに頼朝の肖像とされてきたのは、『神護寺略記』(14世紀半ばの書)に「神護寺に藤原隆信が描いた頼朝や平重盛、藤原光能(みつよし)の肖像が存在する」と記された箇所があり、江戸時代になって、頼朝像を含む三つの肖像画がそれらに該当すると考えられるようになったからである。
◆頼朝の本当の姿は? では本当の頼朝は、どのような姿をしていたのだろうか。 東京大学名誉教授の黒田日出男氏は、甲斐善光寺(甲府市)の木像が唯一、鎌倉時代に頼朝の姿をかたどったものだと述べる。 妻の北条政子が信濃善光寺へ寄進したのだという。 神護寺の肖像画とはまったく似ていないが、野性的な威厳のある顔立ちをしており、征夷大将軍としてふさわしい。 近年、小中学校の歴史教科書では、この肖像を頼朝として紹介するケースも増えてきている。 ※本稿は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
河合敦