名づけ親のアントニオ猪木から「愛のビンタ」も…演歌歌手・森山愛子「不合格でいいのに」でスタートした歌手人生も20年目に
2024年でデビュー20周年の演歌歌手・森山愛子さん。これを機にいったん歌から離れることを決意されました。芸名の名付け親でもあり縁の深かったアントニオ猪木さんや、恩師の水森英夫先生とのエピソードを伺いました。(全2回中の1回) 【写真】「衝撃的!」アントニオ猪木さんから「愛のビンタ」を喰らう森山愛子さん(全11枚)
■勝手に応募された「のど自慢」が始まりだった ── 演歌歌手としてデビューして2024年で20周年ですね。おめでとうございます。感慨深いものがおありだと思います。小さいころから演歌が大好きだったそうですね。
森山さん:そうなんです。完全に母と叔母の影響だと思います。母は演歌を聞くのが好きで、民謡もよく歌っていました。叔母は昔、歌手を目指していて、私にその夢を託したかったようです。 そんな流れで、演歌が好きだった母と歌手を目指していたことのある伯母が日本テレビのワイドショー番組『ルックルックこんにちは』で行われた「女ののど自慢 女子高生大会」に勝手に応募したんです。私が高校生のときでした。 予選会の前日に書類審査に通過したことを知らされて、急きょ予選会に。もちろん練習はまったくしてなかったので、ぶっつけ本番です。予選会では80人弱の参加者がいたのですが、人前で歌うことがとにかく恥ずかしくて。「さっさと歌って帰ろう」と思って、我先にと会場へ行きました。でも、早く歌い終わっても審査結果が出るまでいなくてはならず「なんなんだよ!」と(笑)。テレビに出るのは恥ずかしいので「不合格でいいのに」と思いながらしかたなく最後まで待っていたら、最終的に番組に出られる10人くらいに残ったんです。
それで番組の生放送で島津亜矢さんの『都会の雀』を歌うことになったのですが、そのときにスタジオにいた作曲家の水森英夫先生にスカウトされて、演歌歌手を目指すことになりました。 ── それからデビューまでとんとん拍子で進んだのですか? 森山さん:いえいえ。それからデビューまで3年9か月かかりました。水森先生からの誘いに母はすごく乗り気で、スカウトされてから週に1~2回、東京にある水森先生のところに自宅の宇都宮からレッスンに通い始めました。高校卒業後は、上京してドラッグストアなどでアルバイトをしながらレッスンに励みました。水森先生には歌の基礎はもちろん、演歌を中心に200~300くらいの曲の歌い方を教えてもらいましたが、難しい課題曲はなかなか歌いこなすことができず、泣きながら帰ったこともありましたね。