「笑いと妄想で現実を破壊する」小川哲×松田いりの『ハイパーたいくつ』文藝賞受賞記念対談
小説におけるユーモア
小川 笑いというのは、読者のことがわかってないと一番書けないと思います。つまり読み手の感情とか、読み手のもっているその小説を読んできた発想の動線みたいなものを、書き手が一番細かく把握しないと書けないタイプの小説だと思うので、笑いの要素をこれからも書いていきたいというのだったら、とりわけ読み手にはこの言葉がどう届いているかは意識したほうがいいかもしれないですね。もちろんこの作品はそれができているから面白いわけですが、今後もずっと継続していってもらえればなという気がしますね。けっこう難しいのでね、ユーモアがある面白いものを書くって。 松田 そうですね。ユーモアもそうですが、ストーリーがぐんぐん前に進んでいく作品にも読者としてはすごく魅力を感じるので、いずれ書いてみたいなとは思っています。一方さっきご指摘いただいたように、書いていて大喜利のような遊びができる場所を発見すると、楽しくなって、ついいろいろ書いちゃうんですけど。 小川 いいんじゃないですか。それと共に、ある程度の型がある、構築されたストーリーみたいなものが両立できるタイミングがあるかもしれないし。実際に両立している作家っていっぱいいるじゃないですか。だからそういう人を参考にしたりとかもできる気がします。 松田 小川さんの作品でも、奇抜でエキセントリックなアイデアがボンッと急に入ってきたりするじゃないですか。ああいうときって、そっちが強すぎて膨らみすぎると物語が歪んでいったりする可能性も出てくると思うんですけど、そこのバランスをどう取るか、みたいな葛藤って書いてるときに生まれたりしますか? 小川 感覚ですよね。たとえば漫才でも、二人が何か喋ってて、ちょっとした小ボケとか余談を言って客である自分がクスッと笑うとして、その笑った箇所の話を二人がちょっと続けるとして、今の話を続けてくれてるんだなと思ってるけど、頭の中には最初の漫才のテーマ、たとえば「結婚の挨拶をお父さんにどうやってすればいいか」みたいな話が全体の構造としてあって、そのやりとりの中の小ボケという構造があるじゃないですか。一方、小ボケの話がどんどん延びていくと、これを広げて小ボケの話にするという構造なのかなって、どこかのタイミングで客は考え方をスイッチするじゃないですか。 松田 はい。 小川 読者が小説を読んでるときも、頭でスイッチを切り替える箇所があって、「これは今、本筋がある中で余談として悪ノリしてるんだな」とか「ちょっと面白くて書いてるんだな」と思ってるところから、「いや、これはその余談がさらに広がっていって、元ネタ自体を食い荒らすタイプの小説だ」とどこかでなる境目があって、そこは越えない。つまり読者の感覚ですよね。読者は、これ以上広げると「これは本筋に戻るタイプの話じゃないんだ」となるタイミングがあるので、「自分がこれ以上やりたいか。続けたいか、続けたくないか」というのもあるんだけど、それよりも自分の中の親みたいな存在が「もうこれくらいにして寝なさい」と言うような(笑)。 松田 (笑)。 小川 なんでそうなるかというと、それが別に悪いことだからじゃなくて、そうすると読み手にとって小説の質が別のものになってしまう。これ以上引っ張ると「あ、こういうタイプの小説なのかもしれない」という間違った読み筋を与えてしまうかもしれないという理由ですよね。「ハイパーたいくつ」はそういう小話みたいものがどんどん本筋を食い破るタイプの小説で、作品の構造やリアリティ自体がどんどん壊れていくというタイプなので、僕はわりとボタンのあたりから「こういう話なんだな」とはっきりわかった。もっというと、この小説の課題としては、「こういうタイプの小説ですよ」というのがもっと早い段階で読者に伝わるといいなとも思いました。つまりこれは笑わせようとしているのか、それとも著者の頭がおかしいのか、視点人物が変わっているというのを表現したいのか、本当に何も知らない人が読むとわからないわけですよね。だから「これは笑わせにいってます」とか「こういう狙いです」というのが読者に最短で伝わる技術を身につければいいと思いました。それは漫才だったらツカミで芸人がやったりしていることだと思うので、大喜利したいときとかはそういうことを、読んでいる人がどう思っているかというのを考えながら書くといいかなという気がしますね。