野村・星野・落合…名監督によって磨かれていった川崎憲次郎がトイレに逃げ込んだ日
◇開幕戦前夜に喫茶店で打ち明けた相手 川崎の開幕投手への抜擢は、こののち8年間で4度のリーグ優勝を成し遂げた落合監督の、徹底した情報管理を語るうえで欠かせないエピソードになる。しかし、開幕投手に指名された川崎は、現場の混乱や不測の事態が起こることを防ぐために、ごく一部の人には登板予定を伝えていたという。 「じつは……“絶対に黙っておいてください”と強く念を押して、内野手のリーダーだった立浪(和義)さんと井端(弘和)、そして僕のトレーニングコーチには本当のことを伝えました。井端はとても驚いていましたね」 井端への激白は、開幕戦前日にあたる4月1日の夜、両者の自宅に近い喫茶店だった。 「近所に住んでいた井端に“ちょっと話がある”とだけ伝えて、喫茶店に呼び出しました。そして“じつは明日の開幕戦で先発を任されたんだけど……”と打ち明けると、井端は“マジですか…!”と言って、とにかく驚いた様子でしたね。内容が衝撃的すぎたのか、井端のほうが緊張していたように感じました」 のちに落合氏は、監督時代の印象に残った試合の一つとして、川崎が登板した2004年の開幕戦を挙げている。彼の心境はどんなものだったのだろうか。 「開幕戦は、チームにとっては長いペナントレースのたった1試合かもしれませんが、基本的にはチームの顔になる投手が任されるのが慣例です。必死にリハビリに励んできた3年間と、“もしかしたら開幕投手をきっかけに、またかつてのようなピッチングができるようになるかもしれない”と思いながら野球に取り組んだ2004年の数か月間は、湧き上がってくるモチベーションが全く違うことが自分でもわかりました」 やる気に満ちあふれた状態で2004年シーズンを迎えた川崎は、この年3試合に登板(※引退試合を含む)したが、かつてのような成績を残すことはできず、中日がリーグ優勝を決めたあとの10月2日、来季の契約を結ばない旨を通告された。 「監督室のドアを開けると、落合さんと森さんが座ってたんですが、なんとなく何を言われるかはわかっていました。“野球を続けるかどうかは、母ちゃん(妻)と相談して決めろよ”と言われて監督室を後にしました。 妻は僕が苦しんでいたのも知っていたので、引退する旨を伝えたら、“お疲れさまでした”と言ってくれました。その後、落合さんに正式に“引退します”と伝えると、“俺がチケットを用意するから、お世話になった知り合いを呼べるだけ呼べ”と言ってくださったんです。僕のために素晴らしい舞台を用意してくださった落合さんには、今でも感謝の思いしかありません」 川崎の引退試合は、話し合いの翌日にナゴヤドームで開催されたヤクルト戦だった。古巣とのゲームに先発した川崎は、本来ならば怪我で出場しない予定だった古田敦也、宮本慎也、岩村明憲の3選手から三振を奪ってマウンドを降りると、試合後には両軍の選手たちに胴上げされて、16年間の現役生活に幕を下ろした。 「残念ながら思うような結果を残せず、悔しい思いもたくさん経験してきましたけど、“最後まで一生懸命、頑張ってよかった”と心から思えた瞬間でした。あの引退試合がなかったら、ひっそりと引退して、そのまま忘れ去られてしまっていたかもしれない。落合さんがチームの力になれなかった僕のために、引退を演出してくださったことが、現在にもつながっていると思います」 ◇野村監督の教え「奇跡を起こすための3要素」 現在は野球解説者として活躍する傍ら、故郷である大分県の魅力を発信し続けている川崎は、大分県佐伯市で釣りの魅力を紹介するテレビ番組『川崎漁業組合』(GAORA)の出演や、自身の名前『憲次郎』と名付けた焼酎や日本酒、さらにはチョコレートを制作するなど、地元の活性化に力を注いでいる。 「たまたま芋掘りに行ったときに、酒蔵の工場長と出会ったことがきっかけなんです。“自分の名前の芋焼酎を作ってみたい”と相談させてもらったところ、興味を持ってくださって。試しに『憲次郎』という焼酎を作ってみると、ありがたいことに全て完売したんですよ」 その後、手応えを掴んだ川崎は、日本酒『憲次郎』や、それを使った『憲次郎トリュフ』などを展開し、いずれも人気を博している。みんなが快く了承してくれたからこそ、全てが回り出したように思いますと、感謝の思いを語る川崎だが、自らも田植えをするなど、地元大分の素材にこだわった商品作りには強いこだわりがある。 「僕の生まれた大分県佐伯市(2005年に再編)には約6万人が住んでいますが、少子高齢化の影響で毎年1000人ずつ減っていて、やがて街自体がなくなってしまう可能性もあるんです。地元の人は“何もない場所だから……”と口々に言うんですけど、豊富な自然に囲まれて、新鮮な魚や野菜が味わえる環境が揃っていて、すごく贅沢な生活をしているようにも思える。僕が大分県の魅力や“田舎でしかできないことの素晴らしさ”を発信することで、少しでも地元を盛り上げていきたい思っているんです」 引退後もさまざまなジャンルの人たちと交流し、情報を発信し続けている川崎が、事あるごとに思い出すのが、常に向上心を忘れずに新しい挑戦を続けてきた野村監督の姿勢だという。 「僕がヤクルトでプレーしていた頃、野村監督が『奇跡を起こすための要素』として、古いものにしがみつかない、知らない人と積極的に話す、何か新しいことに挑戦する。その3つが重要だと話をされていて、その言葉を胸に刻みながら日々過ごすことを心がけているんです。 年齢を重ねていくと、過去の実績にしがみついてしまいがちですが、野村監督は貪欲に新しいものを取り入れていくところがあった。僕自身、出会った頃の野村監督の年齢に近づきつつありますが、新しいものが次々と出てくる現代社会では、かつての野村監督のような姿勢が、より重要になってきているように感じるんです」 野球以外でも果敢な挑戦を続ける川崎の胸には、今は亡き恩師の教えが大切に刻み込まれている。 (取材:白鳥 純一)
NewsCrunch編集部