戦後ソ連に抑留された樺太の民間人の過酷な運命を克明に描く渾身のノンフィクション―石村 博子『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』橋爪 大三郎による書評
◆兵士だけではない、あまりの過酷 厳寒のシベリアは冬、零下四○度が当たり前、六○度の場所もある。敗戦後、そんなシベリアに送られ、収容所(ラーゲリ)で重労働を強いられた樺太の住民が大勢いた。現地で亡くなったり、事情で現地に留まったり。音信不通で忘れられた人びとの存在が、ソ連崩壊で明るみに出た。本書はそうした「シベリア民間人抑留者」の実像を描くドキュメントだ。 当時、樺太は南半分が日本領で約四○万人が住んでいた。そこへソ連軍が進攻、住民は逃げまどった。南樺太はソ連領にすると連合国が了解していた。避難の混乱のなか、離散した家族も多かった。日本側へ脱出するのも家族を探しに戻るのも密航とされ、捕まれば有罪。シベリアに送られた。 刑を終えても自由になれない。指定の場所で労働を命じられる。無国籍者のヴォルチー・パスポルト(狼のパスポート)を渡され、移動が制限され監視される。日本と連絡がつかず、生死不明の「未帰還者」になってしまう。 著者の石村博子氏はノンフィクションライター。「日本サハリン協会」に加入してシベリア民間人抑留者の問題を追った。八年をかけた渾身の力作が本書である。 シベリア抑留と言えば軍人が思い浮かぶ。五七万五千人が連行され五万五千人が現地で死亡した。ただ民間人も、もっと過酷な運命をたどった。本人や家族の証言や資料をもとに、その歴史の真実を実名で克明に記録していく。 UT氏は一九二二年生まれ。四七年、事故を起こしかけ有罪、シベリアに送られた。収容所を出て木工場で働き、夫が戦死したロシア人女性Dと結婚。幼い娘と病弱のDを置いて行けず、帰国の機会を逃した。UT氏の妻は日本に帰国し離婚届を出さなかった。六七年に夫の消息が伝えられた。九五年にUT氏の一時帰国が実現、妻子に面会できた。永住帰国を願いながらも○七年に死去。日本の妻も二三年に死亡している。 IM氏は一九二七年生まれ。列車を運転中に信号無視し有罪、シベリアの収容所に送られた。そのあと牧場で働き、ドイツ系女性Fと結婚する。Fは父と兄を射殺され母は病死、弟は行方不明で天涯孤独だ。七七年にFは事故死。九○年にIM氏の生存情報が日本に届く。九七年に単身永住帰国。石巻に住むが一一年に津波に遭い札幌に転居。一九年に死亡した。 MM氏は一九三二年生まれ。家族を探しに樺太へ逆密航を試み逮捕。シベリアの収容所からカザフスタンに移された。運搬係↓漁師↓運転手と職を転々とし、ドイツ系ロシア人Nと結婚。猟師となりサムライMと呼ばれた。○二年に永住帰国、二二年に死去した。 MM氏はシベリアに送られる途中、MK女と一緒になった。彼女は別の収容所に送られようとする夫にしがみつき、ロシア兵にひき剥がされた。憔悴(しょうすい)しすぐに病死。何とむごいとMM氏は涙する。 評者は二○年前にウズベキスタンでオペラ座を見学した。日本人が建設したと聞き驚いた。亡くなった方の墓参もした。本書はそうした、忘れてはならない同胞の苦難と無念を読者の心に刻む。 戦争は、戦闘員だけのものではない。民間人も当事者だ。民間人を守るのが国際法だが、しばしば無視される。自分が当事者になったとき、家族や大事な人びとを守れるのかと考えさせられた。 [書き手] 橋爪 大三郎 社会学者。 1948年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。執筆活動を経て、1989年より東工大に勤務。現在、東京工業大学名誉教授。 著書に『仏教の言説戦略』(勁草書房)、『世界がわかる宗教社会学入門』(ちくま文庫)、『はじめての構造主義』(講談社現代新書)、『社会の不思議』(朝日出版社)など多数。近著に『裁判員の教科書』(ミネルヴァ書房)、『はじめての言語ゲーム』(講談社)がある。 [書籍情報]『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』 著者:石村 博子 / 出版社:KADOKAWA / 発売日:2024年07月26日 / ISBN:404114650X 毎日新聞 2024年10月19日掲載
橋爪 大三郎