夫が急逝、義父母が遠方の実家の墓に納骨してしまった。分骨を断られた妻に僧侶が説いた「真の供養」とは
◆大切なのは想い YouTubeでB子さんの話をしたところ、大きな反響がありました。 遺骨はないけれど故人の供養をしたいと考えておられる方がこんなにもいるのかと驚いたほどです。 ご家族が戦死したという方、爆発事故により命を奪われたという方、津波に飲まれて帰らぬ人になったという方。 可愛がってくれた父には他に法的に認められた家族があり自分は葬儀にも行けなかったという方や、幼い頃に生き別れた実の母の訃報を受けて供養したいと切願なさる方……。 遺骨に魂が宿っているわけではない、大切なのは想いであり、その想いは形や距離を超えて通じる。 通じると信じることで報われるという考え方に救われたという声が世界中から寄せられました。
◆「供養をしたい」と思う気持ちこそが供養 お墓が一般の人たちに広がったのは明治時代だといわれています。 したがってお釈迦様はお墓には関与しておられませんが、お墓の存在が生きている人の心を癒やす役割を果たすのなら良しとしてくださることでしょう。 けれど、いつのまにかガチガチに固定されてしまった概念によって生きている人の心を曇らせているとしたら、本末転倒も甚だしいといえるのです。 改めてお伝えします。遺骨がなくても供養はできます。 故人の供養をしたいと思う気持ちが尊いのです。その気持ちこそが供養なのです。 ※本稿は、『心が整うおみおくり-残された人がよく生きるための葬儀・お墓・供養のこと』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
大愚元勝