天狗や河童は架空の存在ではない─「キツネにだまされていた」時代の自然観
なぜ昔の日本人は、不可解な現象を「キツネ」のせいにして納得できていたのか。それは、現代の科学的な自然観とも、正統の神話とも異なる世界観が浸透していたからのようだ。 外国人記者が日本を旅して感じた「純粋な畏敬の念」と「人生への活力」 ※本記事は『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(内山節)の抜粋です。
正統の「神話」とは異なる神々の世界
ところで人間たちがキツネにだまされていた時代には、だますわけではないが、人々はいまよりもっと多くの生命を山の世界に感じていた。たとえば群馬県上野村の私の家の近くには天狗岩という山がある。いうまでもなくそこは天狗が住んでいた山である。カラス天狗という鳥もいた。頭に烏帽子を被り、小さな下駄をはいて飛んでいくカラスである。 川には河童もいた。もっともそれらの生き物たちを架空のものとして退けてしまうのは簡単である。しかし、次のことは記憶しておいてもよい。 上流域の川を歩いていると河原に大きな岩があって、その上に小さな社の祀られていることがある。日本では自然物自体が神として祈りの対象になることがよくあるが、修験道では霊山といわれた山自体が「御神体」である。大木が神として祀られていることも、水自体が「御神水」であることもめずらしくはない。神が降臨し宿ったのではなく、自然の生命それ自体が神であり、その「生命」が岩や水、山として現われているのである。 ここには天から神が降臨し、その子孫が神々になっていった「日本」神話とは異なる神々の世界がある。
偏在する「次元の裂け目」
山の神、水神、田の神、……、村の世界はさまざまな神々の世界であり、それとどこかで結びつくさまざまな生命の世界であった。自分の生きている世界には、「次元の裂け目」のようなものがところどころにあって、その「裂け目」の先には異次元の世界がひろがっていると考える人々も多かった。その異次元の世界に「あの世」をみる人もいた。ときにはオオカミはこの「裂け目」を通って、ふたつの世界を移動しながら生きていると考える人たちもいた。 可視的な、不可視的なさまざまな生命の存在する世界、それがかつて村人が感じていた村の世界である。 とすれば、天狗やカラス天狗といった生命が山の世界のなかに感じとられていたとしても、それはそのまま受け取っておけばよい、現在の私たちの世界では架空の生き物であったとしても、その頃の村の人たちの生命世界のなかでは感じとられていたものなのである。 それが人々がキツネにだまされていた時代の生命世界であった。 レビューを確認する
Takashi Uchiyama