ヤクルト2位 モイセエフ・ニキータ 《生きていくために日本に来ました》父が明かす壮絶半生【ドラフト選手の“家庭の事情”】
【24年ドラフト選手の“家庭の事情”】#10 モイセエフ・ニキータ (ヤクルト2位/豊川・17歳・外野手) 【写真】育成契約は嫌だった?ドラフトで名のある高校球児が軒並み指名漏れのカラクリ ◇ ◇ ◇ 「生きていくために、日本に来ました」 ロシア出身のモイセエフの父・セルゲイさん(47)は、東端のウラジオストクにある極東海洋大学で電子工学を専攻した。どうにかして国を出たい一心で船に乗る仕事ならば活路が開けるのではと考え、船舶エンジニアを志していたからだ。 当時のロシアの社会情勢は苦境を迎えていた。1991年にソ連が崩壊。翌92年には2000%を超えるハイパーインフレが国民を襲った。国営企業の閉鎖や大量解雇により街は失業者であふれ、治安は悪化の一途をたどる大混乱に陥った。 「大学時代から後に結婚するアンナ(47)と暮らしていましたが、本当に苦しい生活でした。鶏モモ肉1枚で、2人分の夕食を1週間しのぐ。そんな日々が数カ月続いたこともあった。どこかの国に移り住むことを夢見ていた中で、選択肢に日本が出てきて、日本語の授業を取って……」 こう話すセルゲイさんは学費が免除されるほど優秀な成績を収めていた。国外移住を真剣に考えていた中で日本の文部科学省が支援する外国人研究者招へい事業の存在を知り、応募。晴れて合格し、2000年4月に来日した。同10月に山口大大学院へ入学。アンナさんと結婚した。 同大学院で修士、博士課程を修了し、現在は愛知県内の機械メーカーで開発や研究の職に就く。2年前からは日本国籍の取得手続きを進めている。 「大学で留学を親身にサポートしてくれた先生、一足飛びで大学院に迎え入れてくれた教授、会社で私を受け入れてくれた同僚など、本当に多くの人に助けてもらいました。今の生活があるのは出会った方々のおかげです」 アンナさんとの間に男の子4人。モイセエフは次男で、3つ上の兄と小学1年、幼稚園児の2人の弟がいる。
父・セルゲイさんは当初、野球の魅力を全く理解できなかった
兄とモイセエフは父・セルゲイさんの勧めで4歳の頃から空手道場で汗を流した。セルゲイさんも14歳から「治安の悪かったロシアで自分の命を守るため」と、空手を習っていた。数ある格闘技の中から空手を選んだのは、映画などを通じて、憧れを抱いていたから。来日後も精進を重ねて黒帯を取り、極真空手の東海王者に2度輝いた実力の持ち主。息子たちに空手を勧めた理由は何か。 「空手は私にとって、ないと生きていけないくらい特別なものです。子供たちにも空手を通して学んでほしいことがたくさんあった。自分を追い込んで苦しさを乗り越えたり、いざ挑戦してみたら『思ったよりもやれるな』という経験をしたり。強敵に挑む際の精神も身に付けて欲しいと」 モイセエフは小学1年から兄の影響で野球も始めた。土、日は朝から夕方まで白球を追い、夜は空手道場へ。セルゲイさんは「両方とも本気で取り組むように」と見守った。 実のところ、セルゲイさんは息子たちが野球を始めた当初は、競技としての魅力を全く理解できなかった。外野を守っている息子はただ漫然と時間を過ごしているかのようにも見えて、もどかしさも感じていたという。 「分からないなら自分もやってみよう。そう考えたんです」と、セルゲイさんは少年野球の指導者に頭を下げ、子供たちに交ざって守備に就き、捕球動作や打球の追い方、ポジション取りなどを細かく尋ねたり、野球に関する本も読み漁った。 「驚きましたよ。たった数分の外野守備で足がパンパンになるなんて。実際にやるまで思いもよらなかった(笑)。息子が私の想像以上に試行錯誤、努力していることも理解できた。知れば知るほど野球の魅力を実感し、今ではすっかり好きになりました」 モイセエフは小学4年から野球に専念し、阿東パワーズから東海ボーイズ小学部に移籍。空手をやめることにセルゲイさんは反対しなかった。その頃にはもう、空手に求めていたことは野球でも得られると理解していた。中学時代は愛知衣浦シニアに所属。複数の名門高校から声がかかったが、あえて当時甲子園出場歴1回(2014年春)の豊川(愛知)を選んだ。