注目を集める若き画家・真田将太朗。生成AIの進化を受けて再考する、創造性と「絵を描く」という欲求の根源
東京大学大学院に在籍し、先端表現情報学を研究する学生でありながら、今年7月に銀座 蔦屋書店で開催した個展では、始まってものの1時間ですべての絵が売約済みとなった画家・真田将太朗、23歳。ギャラリーから展覧会開催へのラブコールが後を絶たない真田の絵は、どのようにして生まれているのか。5歳の頃にはすでに絵描きの才覚を見せたその生い立ちから、いま画家として考えることまで、東京都内にある真田のアトリエで話を訊いた。 【画像を見る】天才か…! 5歳の時に描いた作品
長い時間軸に思いを馳せて、風景を描く
――真田さんは一貫して風景画を描いています。とはいえ四角いキャンバス地にはさまざまな色の縦線が抽象的な色面を成し、オーソドックスな風景画のイメージとは異なります。肖像画などいくつかある絵画のジャンルの中でなぜ風景画を手掛けるのですか。 風景画は幼い頃からいちばん多く描いてきたものなんです。というのも、肖像画のように画家の捉えた被写体のイメージや、政治や信条についての個人的な考えが介在するコンセプチュアルアートは、僕の身体感覚からはずれている感じがします。のめり込むのではなく、客観性に重きを置いて絵を描きたいんです。 ――なぜ描く上で客観性を重視するのでしょうか。 僕は昔から山や海岸線といった風景を見つめるのが好きなんですが、なぜかというと、俯瞰して見る風景に感動を覚えるからです。俯瞰するとは、引いて全体を把握するということだけではなく、山や海がそれまでにたどってきた長い時間軸に思いを巡らせながら風景を捉えるという感じ。そうした風景を俯瞰して見つめているときの自分の感覚を絵で表したくて自然と風景画に行き着きました。 ――そうした客観性を追求した風景画を描くために、景色を入念に取材し「設計図」を描くそうですが、その意図は。 絵を描く僕の身体は、風景を見たときの純粋な感動をアウトプットするためのデバイスだと思っています。しかし僕の手で描いている以上、描くとともに隙が生まれ、その都度の主観が入り込んできます。たとえば、ここでもっと青色を入れた方がいいな、とか。そうした気持ちに揺れが起きた時に立ち帰るために、設計図というものをあらかじめ用意しておくのです。 具体的には、見た風景をドローイングしたり、写真を撮り、それらを分析してこの風景のどの部分に引かれたから絵にしたいという特徴を、雄大さや、荒々しさなど、細かく言語化してノートに書き込んでいきます。景色を見たときに感じたロジカルではない主観を、ロジカルにする作業です。それから風景に見合う色をどう配置していくか書き留めます。どこにどの色を乗せていくか、設計図の作成は入念に、1カ月から2カ月かけます。その後、実際にキャンバスの前で描く作業は一気に進めます。確定した設計図から、絵筆を進めていくとともに、自分がこれまでに培った知見や技法がふと入り込むかもしれません。でもそれは、僕が風景を見たときの純粋な感動とは違う後天的な要素です。そうして最初の感動から変容していくのが怖いのです。 ――それだけ念入りにリサーチし、構図も決めていながらも、風景を忠実に描くのではなく、山なのか海なのか対象が分からない抽象画にしているのはなぜでしょうか。 写真のようにその時間を克明に切り取る描写ではなく、永続的な時間を感じさせる絵を描きたいんです。僕が風景を見つめた時の感動というのは、いま目の前に広がる光景だけでなく、風景がそれまでたどってきた長い時間軸に思いを馳せることから生まれます。フランスの印象派の画家たちは、移ろう自然の一瞬の姿を記録しようと絵筆をとりましたが、僕の絵に対するアプローチは異なります。一瞬ではなく、風景が経てきた時の流れをキャンバスで表現したいんです。人が周りの世界を見ているとき、写真のように線や色が克明に像として残るのではありません。人の目は周りをなでるように絶えず動いて、視線は定まりません。だから実際に脳裏に残像としてあるのは、山や海の明確なアウトラインではなく、色面であり、抽象化された像なのです。