アフリカへの中古車輸出業撤退から中古車買取り事業に転換したハッピーカーズ・新佛社長「今思えば、好き勝手に生きることに一生懸命だった」
◆日本車需要が高いアフリカに中古車を輸出
その後の新佛社長の人生は波乱万丈そのもの。紆余曲折をへて、新佛社長が目をつけた新しいビジネスが「中古車輸出業」だった。 「ネットで見つけた『中古車輸出業なら、低リスク、小資本で、伸びている海外マーケットにチャレンジできる』という一文を見て、『これだ!』と成功の確信を得ました。 いえ、その自信に根拠は当然ながらありませんでしたが(笑)。でも、それまでドメスティックな仕事をしていたので、『世界を相手にするグローバルな仕事がしたい』という思いが強く芽生えていて、その点においても中古車輸出業はピッタリでした」 新佛社長が手掛けたのは、海外への販売ルートの開拓だった。 「主な輸出先はアフリカの東海岸。今でもそうですが、アフリカはかねてより、日本の中古車の主な輸出先として知られています。ケニアをはじめ、ウガンダ、タンザニア、モザンビーク、ザンビアといった東海岸の国々は日本と同じ左側通行(右ハンドル車利用)なので、日本車の需要が非常に高いのです。 ちょうどその頃、中古車の輸出先としてモザンビークからの取引が増えていて、モザンビークのセルジオというバイヤーと直接連絡を取り合うようになっていました。 何度かやり取りをした後、彼が自家用車として購入したフォードの輸出をきっかけに、モザンビークまでセルジオに会いに行ったんです。マプートという港町にほど近いところに住む彼は、今後、日本から中古車を輸入してモザンビークで販売していくビジネスを手広くやっていきたいという夢を真剣に語ってくれました。 帰国後、彼が在庫にしたいという車をリクエストしてもらい、オークションで買いつけ、ランドクルーザープラド、RAV4といった人気車を次々と船積みして送りました。 ところがセルジオから『計画がとん挫して、今は払えない』との連絡がきて……。その連絡は僕にとって死刑宣告にも等しくて、致命的な状況に陥りました」 「その後、巻き返しを狙い、「『中古車輸出事業を手掛ける知り合い数名で現地法人を立ち上げて、一緒にビジネスを始めよう』という話になりました。 手を上げた10人くらいの人たちとは何度か打ち合わせを重ねていきましたが、いざ資金を出す段になると、ひとり、ふたりと静かに去っていき、最終的に残った僕とパートナーでタンザニアのかつての首都、ダルエスサラームに現地法人を立ち上げて、ビジネスを始めることにしたのです」 タンザニアに拠点を移してすぐ、地元の人たちに事業を知ってもらうため、さまざまな取り組みを行ったという。 「まずは大々的に、新聞広告を打つことから始めました。現地のトレードショーに日本からラッピングして船積みした車を出展したり、一流ホテルを貸し切って駐タンザニア大使やタンザニア銀行の重役といった要人からマスコミまでも招いてパーティを開いたり、売り込むためなら片っ端から何でもやりましたね。 現地の電話帳を引っ張り出して、スタッフと一緒にスワヒリ語でアフリカ人の社長に電話をかけてアポをとり、バスで道なき道を進みながら、文字通り命がけでクライアントを訪問し、中古車の売り込みを行う日々。 しかしながら、生半可なパーティーも、にわか仕込みの訪問営業も、簡単にうまくいくほど世の中は甘くありません。たちまち僕は、にっちもさっちもいかなくなってしまい、その年の暮れにやむなくアフリカからの撤退。そして同時に、中古車輸出ビジネスからの撤退を決意したのです」