アスリートの分岐点【柳田将洋】初出場の“春高”がバレーで生きるきっかけに!
結成2年めながら勢いに乗る東京グレートベアーズに、移籍を果たした柳田将洋。“美しいジャンプサーブ”を誇るアウトサイドヒッターの無名選手がスター選手として脚光を浴びる転機となった一戦とは!?
2009年3月24日 全国高等学校バレーボール選抜優勝大会 VS 宮崎県立都城工業高等学校
新体制で今シーズンのVリーグに挑む東京グレートベアーズの主力選手の1人として、結成2年めのチームを牽引する柳田将洋。日本代表としても大学時代に選出されて以来活躍し、銅メダルを獲得した今秋の杭州アジア競技大会ではB代表の主将を務めた。そんな柳田が日本のバレーボール界で脚光を浴びたのは、2009年3月に開催された“春の高校バレー”でのこと。柳田自身の分岐点となった試合も、彼が東洋高校時代に初出場したこの大会だった。 この大会で東洋高校は、ノーシードの状態から優勝候補のチームを片っぱしから破って勝ち上がる快進撃で注目を集める存在となった。そんなチームの強さを決定づけていたのが、当時まだ1年生だった柳田だった。大会を通して躍動した東洋高校は、優勝した都城工業高等学校に準々決勝で敗れ、ベスト8となったが、柳田の存在は多くのバレーボール関係者の間に知れわたることになった。 「当時の僕は、高校バレー界で特に有名でもなく、有望視される選手でもありませんでした。そんな自分がこの大会で結果を出したことで全日本ユースという代表のカテゴリーに選抜してもらって世界と戦う経験ができ、さらにはシニアの代表に入っていくことにも繋がっていきました。今、振り返ってみると、バレーボール1本で生きていこうと思ったことのきっかけはそこにあったんだと思います。そういった意味で、自分にとって大きな分岐点だったんだと感じています」 柳田自身に限らず、チームとしても大きな自信をつけた大会となったという。 「当時、僕が1年生で入ったばかりの頃の東洋高校は、全国区の大会で勝てるチームでは正直、ありませんでした。そういった中で、この年の春高バレーではひとつひとつの試合を勝ち上がっていく過程で選手1人ひとりの意識もかなり変わり、こういう舞台でも自分たちは勝つことができるチームなんだという自信に繋がっていったのを覚えています。大会では1試合めからシード校と戦うことになり、前評判としては僕らが到底勝てるような相手ではなかったんです。そういった相手に自分たちが考えながらやってきたことが通用し、勝ちに繋がっていくことが実感としてあったし、今思えば本当に楽しくバレーボールができていました」 チームの強さに手応えを感じていただけに、敗退の悔しさは相当なものだった。 「ベスト4進出をかけた準々決勝の試合で、3セットめでリードしている状況(高校バレーは3セットマッチ)になったにもかかわらず、僕が決めきれずに逆転を許してしまい、敗退することになりました。はじめてエースとしてどうやって戦うべきなのかという意識が芽生えたところで、結果を出すことができなかった。その翌年の春高バレーで優勝することができたのですが、今思えば、あのときに経験した悔しさがあったことでその後の1年間頑張って、同じ舞台に立とうというモチベーションに繋がったと思います」 この大会では、現在の柳田の代名詞にもなっている美しいジャンプサーブも脚光を浴びることに。強豪相手に柳田のスパイクがあざやかに決まるたびに、会場には声援が響きわたっていたという。 「自分としては1年生のときはそれほど自信を持って打てていなかったのですが、得点を取っていかなければならないというところで、大会前からジャンプサーブに取り組む時間を増やしていました。東洋高校には監督が指示を出すというより、自分たちで考えてプレイする文化のようなものがありました。そういった環境を求めて進学した側面もありますが、それ以前にバレーをどうしたら楽しめるのかが前提にありました。そこから、こうしたら得点しやすいんじゃないかといったことを常に考えていました。それを積み重ねていったものが、大会でも生きたところはたくさんあったのかなと思います。あと性格的なものだと思いますが、わりと大舞台で活躍する選手が多かったのもあります(笑)」 今期からは、「可能性を感じた」チームである東京グレートベアーズの主力選手としてVリーグのコートに立っている。 「東洋高校での立ち位置もチャレンジャーでしたが、東京グレートベアーズにもその言葉はぴったり合っていると思います。僕自身もそうなんですが、このチーム自体もバレーボール界にチャレンジしているところがたくさんあります。もちろんリーグ優勝は視野に入れていますが、まずはプレイオフに残ること。それが非常に大きなステップだと思って、戦い抜いていきたいと考えています」