「現在の X の姿勢は、あまりにも無責任だ」:ある国内ブランド広告担当による怒りの告白
──そのエコシステムに関係していると言う意味では、広告主の責任が問われる問題でもある。
その通りだ。広告にまつわる問題である以上、出稿する広告主、出稿を提案したエージェンシーにも責任はある。今回の件で我々に「他者の苦痛を収益化する行為に加担している」といった批判があるのであれば、受け入れる。しかし、プラットフォーマーであれメディア企業であれ、広告事業を手がけている以上、彼らにも広告主に対してブランドセーフティな環境を提供する責任と義務がある。 もちろん、広告主も丸投げではなく、アドベリフィケーションツールを駆使して出稿面を管理するといった自衛の必要はある。だが、「UGCが溢れるソーシャルへの出稿は、すべて広告主の自己責任だ。我々は枠とリーチを提供してやっているし、広告配信管理機能まであるのだ」という態度は容認できない。 フェイクやヘイトが蔓延っているが、広告の近くには出てこないようにしておいたから問題ないと言うのなら、Xの姿勢はあまりにも無責任ではないか。ユーザーの体験が劣悪であれば、広告だけが守られていても意味がない。
──そこまで思いがありながら、なぜXに出稿し続けてきたのか?
まず、かつてのTwitter時代に築き上げた価値─フォロワー数やユーザーとのエンゲージメント、独自のコミュニティ、ネットカルチャーとのタッチポイントとしての機能など─が我々のブランドコミュニケーションの資産として残っており、それを捨て去るという決意ができなかった。というより、今でもその決断はできない。 次に、デジタル広告はパフォーマンスと予算消化のためのもの、という意識を払拭できていない点だ。Xへの出稿は、コストの割にプロモーションの拡散効率や獲得効率はいい。FacebookやTikTok、LINEとは明らかに異なる特性を持っており、目的にもよるが、我々の施策とも相性がよいこともあった。結局はそういうことだ。 さらに踏み込むなら、我々の中で「デジタル広告はどこかワンランク下にある」という諦念があり、ROASだけを追いがちではなかったか。代理店のセールスをただ受け入れていなかったか。もっと言うなら、ブランドセーフティを重視しているように振る舞いながら、実は都合よくその重要度や優先度を動かしていなかったか。それらの積み重ねだ。