殺人、放火……外国から賊徒がやってきた! 刀伊の入寇を時代考証が解説!
彰子の許を訪れる実資
時は移り、史実では寛仁(かんにん)三年(一〇一九)の元日、実資は道長から、彰子(しょうし)の年爵(ねんしゃく)を実資に譲ることを告げられた。「上達部は、すべて雑事を告げ伝えてくる。長年、汝(実資)は一事も伝えてこない。年爵を給おうと思う。家の作事に充てるように」ということであった。実資は当惑しながらも感激したのであるが、五日になって、今回は叙すことのできる人はいないということを道長に伝えて、これを固辞した。 その後、彰子の許を訪ねて、固辞したことを陳謝している。「女房」を介して給爵の恐縮を彰子に啓上させた。その際、「枇杷殿(びわどの)にいらっしゃる時に、しばしば参入した事を、今も忘れない」ということについて、彰子の仰せ事が有った。そして「女房」は、「あの頃は参入したのに、現在は参らない。(彰子に追従する)世の人と同じではない。立派に思われているところである」という彰子の言葉を伝えている。これらの懇切な言葉を伝え、また実資がわざわざ記録しているというのは、よほど親しい「女房」との会話であったと考えられよう。この「女房」も、私は紫式部であると考えている。
想定されていなかった都と地方の行き来
さて、ドラマでは主人公は九州へと旅立つことになっている。もちろん、これはフィクションであり、女性が一人で遠行することなど、この時代にはあり得ないことである。そもそも古代においては、官人の出張や受領の赴任、近国への物詣などを除いては、都と地方との行き来は想定されていない。だいたい、交通機関はもちろん、民間の宿泊施設や食事をする場もなかったのである(倉本一宏『「旅」の誕生 平安―江戸時代の紀行文学を読む』)。
賢子の彰子への出仕
その後、賢子(けんし、父はもちろん藤原宣孝〈のぶたか〉)の彰子への出仕が描かれた。出仕自体は史実であるが、いつ頃の話であるかは定かではない。賢子は越後弁(えちごのべん)として彰子に出仕し、後に親仁(ちかひと)親王(後の後冷泉〈ごれいぜい〉天皇)の乳母(めのと)となって「藤三位(とうさんみ)」「弁乳母(べんのめのと)」と称され、はじめ関白藤原道兼(みちかね)嫡男の兼隆(かねたか)、ついで大宰大弐高階成章(たかしなのなりあきら)と結婚して「大弐三位(だいにのさんみ)」と呼ばれることになる人である。 女房三十六歌仙(にょうぼうさんじゅうろっかせん)の一人に数えられ、家集(かしゅう)に『藤三位集(とうさんみしゅう)』(『大弐三位集〈だいにのさんみしゅう〉』)がある。八十歳を越える長寿を得ている。