殺人、放火……外国から賊徒がやってきた! 刀伊の入寇を時代考証が解説!
2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる! *倉本氏による連載は、毎月1、2回程度公開の予定です。 【写真】「この世をば…」栄華を極めた道長が詠んだ歌の背景を時代考証が解説 !
「この世をば」の直後に亡くなった敦康親王
大河ドラマ「光る君へ」45話では、寛仁二年(一〇一八)十二月十七日、道長によってついに立太子することができなかった敦康(あつやす)親王の死が描かれた。年二十歳。『御堂関白記』にはその記述はなく、『小右記』に道長が実資(さねすけ)に伝えた言葉として、「式部卿(しきぶきょう)敦康親王が未(ひつじ)時に薨(こう)じた」とのみ記されている。 こんなに早く死去するのならば、一条や彰子の望んだとおり、敦康を先に立太子させておけば、皆はその霊に悩まされることなく、安穏にその後を過ごせたことであろうが、もはや手遅れであった。「この世をば」の直後に敦康が死去するというのも、何とも皮肉な巡り合わせである(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。
隆家の大宰府赴任
次いで時期はさかのぼるが、大宰府の人事をめぐる行成(ゆきなり)と隆家(たかいえ)のやりとりに触れておこう。長和(ちょうわ)元年(一〇一二)に突目(つきめ、角膜に異物が刺さり、そこに小さな傷ができて細菌に感染して起こる化膿性潰瘍)を患った隆家は、長和二年八月十三日に隣家の実資を訪れて相談している。 筑前(ちくぜん)国に高田牧(たかだのまき)という所領を持ち、唐物交易(からものこうえき)に造詣も深い実資は、博多に在住している宋(そう)人の医師について知らせ、大宰府への赴任を勧めたようである。 長和三年正月から三月にかけて熊野詣(くまのもうで)を敢行した隆家は、大宰権帥(だざいのごんのそち)への任官を希望した。実資と語り合ったことは、三条天皇の意向は良いのだけれど、道長が妨げるのではないかということであった(『小右記』)。 六月二十五日、大宰府に滞留(たいりゅう)していた宋国医僧(いそう)の恵清(けいせい)が、隆家が砂金十両で交易した治眼の薬を早船(はやぶね)で送ってきた。 十一月七日の小除目において、同じく大宰府への赴任を望んでいた行成を押し退けて、隆家が大宰権帥に任じられたが、これは道長が陣座(じんのざ)で単独で行なったものであった。実資は、「帥については軽くはない。天皇の御前に於いて任じられるべきであった」と非難している(『小右記』)。道長としては、三条天皇の信任が厚い隆家が都にいるよりは、何年か遠くにいてもらった方が、退位工作に都合がいいといったところであろうか。もちろん、行成は手許から手放したくはなかったであろう。