フェンシング・松山恭助が「精神的にきつかった」という苦悩から脱することができた「大きな転機」
【託されたものを現世代に伝達】 ――リオ五輪のあとは、太田選手から託された責任感のようなものをずっと感じていたのではないですか。 その時は感じているとは思わなかったけど、今振り返ると、やっぱりキャプテンとしての責任とか、「男子フルーレの後継者」と言われることとかが、自分のなかでどこかプレッシャーになっていました。勝たなくちゃいけないと思ってしまっていたのが、もがいた原因のひとつかなとは思います。 他の選手はどう思っていたかわからないけど、自分は勝たなくてはいけないという気持ちが強すぎて、のびのびとフェンシングができなかったというか、理想とする自分があまりにも大きすぎて、そこに引っ張られすぎていたなという印象です。 ――松山選手が個人で初優勝した頃から、団体でもしっかり表彰台に上がるようになりましたね。 僕が初めてワールドカップで優勝した22年から、今年(24年)のワールドカップまでは、団体戦ではずっとベスト4に入り続けています。そのあたりで個人としてもチームとしても手応えを感じ始めて、「いけるかもしれない」というのをジワジワ感じ始めました。22年をきっかけに個人も団体もよくなってきて、23年くらいからは何回も表彰台に上がるようになりました。 ――22年のアジア大会を見て、それまでほぼ同世代でやってきたなかに、飯村選手という勢いのある新しい風が入り、それがプラスに作用しているのではと感じましたが。 自分と敷根選手は小さい頃からやっていて、東京五輪も一緒に経験して悔しい思いをしました。ベテランではないけど、ある程度いろんなことを経験した仲で、そこに新しい選手がポンと入ってきて。彼のような思いきりのいい選手は大事なので、そこはすごいプラスでした。 自分が代表チームに入った時は、太田さんが団体戦でも「責任は自分と他の選手で取るから、お前はのびのびやれ」と言ってくれていました。もちろんプレッシャーも緊張もあったけど、失敗しても怒られないし、うまくいけば喜んでくれました。それが印象的だったので自分も(飯村)一希などには「好きなようにやれ」と伝えています。勝っても負けても自分たちの彼への信頼も変わらないし、「あとは自分と敷根選手で何とかする」と彼にはずっと言っていたのでよかったのだと思います。