フェンシング・松山恭助が「精神的にきつかった」という苦悩から脱することができた「大きな転機」
――東京五輪の団体は、3位決定戦で当時世界ランキング1位のアメリカに敗れました。男子エペ団体の金メダル獲得を見て刺激もあったのではないですか。 彼らが成し遂げたのを見て、うらやましさと悔しさがありましたが、自分たちは地に足をつけて1戦ずつ戦わなくてはいけないというマインドでやりました。惜しかったとは思いますが、あの時の実力から考えたらあれが限界だったかなと。東京五輪前は、チームとしても個人としても、本当の意味でのメダル争いをできていなかったので、やっぱりチャレンジャーでした。 ただ、無観客ではあったけど五輪を経験したことは、その後の自分の3年間においてはすごく大きかった。そこに出たからこそのリアルな五輪の空気感などを、悔しさも含めて感じました。それを糧に次の3年間を過ごせたので、確実に大きな経験にはなりました。――通常なら4年ですが、パリまで3年しかなかったというのもよかったですか。 自分たちにとってはよかったと思います。次は必ずリベンジするっていう気持ちが切れず、エネルギー不足にはならなかった。4年後となると、その気持ちを持って戦うには少し遠すぎる。これからロサンゼルス五輪を目指していくことになりますが、あまりにも遠くて大きな目標なので、まずは1シーズンずつできることをしっかりやっていくというのが一番の近道になる。その意味で東京からパリの3年の意識とは違いますね。
【結果が出ない苦悩を経験】 ――東京五輪の翌シーズン、22年11月のワールドカップでの初表彰台が初優勝でしたね。 それが自分にとっては大きな転機になりました。それまで本当にうまくいかず、あと少しのところで負けることの連続で......。いろいろ試行錯誤していったなかでの22年シーズン最初の試合でした。いい練習もできていたし、調子もよかった。感覚としても「いけるかもな」というのがありました。今持っている自分の力を最大限発揮するというところにフォーカスして、それをしっかり体現できたという感じでした。 ――それまでに、敷根選手だけではなく、若い飯村一輝選手もワールドカップ初表彰台を果たしていました。チームリーダーという意識があった分、苦しさも感じていたのではないですか。 フェンシングが正解だったとしても、結果が出ないと疑問が生まれたり、自信がなくなったりすることがありました。結果を出すまでの試練というか、我慢するのがやっぱりきつかったですね。自分を否定しすぎちゃいけないので、自分のフェンシングのアイデンティティを失わないようにと思っていました。結果が出たことによって、その努力や取り組みが報われた感覚がありました。 ――周りの選手が個人で結果を出しているなかで、チームを引っ張らなくてはいけない自分がなかなか結果を出せない間は、ジリジリしっぱなしだったのでしょうか。 そうですね、本当に精神的にもきつかった感覚はありました。でもリオ以降は試合で思うようにいかなくても、後退はせずにジワジワ進めていたかなという感覚もありました。 そのなかで東京五輪にも出て、「必ずパリでリベンジする」という強い気持もずっとありました。それに、純粋にフェンシングが好きだったし、誰にも負けたくない気持ちもあって、それだけで這い上がったというか、コツコツ努力をしてきたっていうか、そういうのが繋がっていますね。