大阪「模擬原爆」投下から70年 若者に語り継ぐ元教師の思い
朝会った姉の親友が犠牲に
爆弾投下で周囲も騒がしくなり、社長からも「きょうは学校へ戻って」と言われ、電車が不通だったため歩いて約2キロ東の学校まで戻った。 「当時は学校へ戻っても勉強はできなくて。生徒は下校、私も帰宅しました」。龍野さんの自宅は、爆心地から約150メートル南の地点。帰宅するとガラスなどが割れていた。しかし、そこで母と姉が涙を流し「トシちゃんが死んだ」と語った。トシちゃんは爆心地となった金剛荘の近くに住んでいた姉の親友だった。 「私の姉は横須賀に嫁いだのですが、病のため実家に帰ってきてました。当時は薬を手に入れるのもままならなかったんですが、トシちゃんはそんな中、薬を手に入れて持ってきてくれたんです」。トシちゃんは仕事に行く龍野さんと「しげちゃん学校行くんやろ。行っといでまたね~」と話した。「まさか、これが最後のやりとりになるとは」 トシちゃんは、夫が隣組の組長をしていた関係で、B29の飛来を告げる空襲警報が鳴ると「組長やってるから」とすぐに自宅へ戻った。「組長の奥さんが警報なった時にいなかったというのはいけないと思い戻ったと思う」と龍野さん。当時、母と姉は「とめておけばよかった」と泣きながら話していたという。そして、トシちゃんは背中に無数のガラスが刺さった状態で遺体となって発見された。母と姉は「きれいな肌やったのに」と泣きながらピンセットでガラスを一つひとつ抜いたことを話したという。
約50年後に模擬原爆だったことを知る
また、龍野さんは爆心地の様子も目の当たりにした。きれいな日本庭園があった金剛荘は跡形もなく壊れ、近くの電柱には民家の畳や人が着ていたであろう破れた衣服などがぶらさがっていた。 そして、ある光景に目を疑った。よくみたら、人の内臓もぶら下がっていたという。現場近くの田辺小学校では遺体が安置され、バラバラになった体の一部が並べられていたという。この惨状が、あまりにも強烈すぎて、もうこのことを口にすることができなくなった。 後に死者7人、重軽傷者73人とされたこの爆弾被害。それが約50年後、愛知県春日井市の市民団体が国立国会図書館に所蔵されていた米軍の資料の中から、原子爆弾を投下する実験として国内に49発投下した模擬原爆、通称「パンプキン爆弾」であることを突き止め公表。それが報道され、龍野さんは衝撃を受けた。「トシちゃんたちの命を奪った爆弾が模擬原爆でだったなんて」