B29、防空壕、食料難……東海林のり子さんの戦争体験、兵士を励ました「歌」 #戦争の記憶
戦争が恐ろしいと感じた瞬間
物心がついたころ、のり子の周囲でも戦禍が日増しに目につくようになっていった。浦和では1945年4月12日深夜と14日、5月25日に大きな空襲があり、多数の死傷者を出している。 「ある夜、爆撃機のB29が真上に飛んできて、手を伸ばせば届くような距離に感じました。間近にその巨大さと音を感じたときは、言いようもない恐ろしさで。さらに焼夷弾が落ちるのも見えて、これが戦争なんだと思いましたね。3月10日の東京大空襲のときは自分の命も危ないと感じたし、その後、旧制浦和高校が爆撃で破壊されたりして、戦火が近づいていると肌で感じました」 空襲警報とともに自宅庭にあった防空壕に逃げ込む回数も増えてきた。 「大人2人が入れるくらい、深くて大きいものでした。よく駆け込みましたが、防空壕のにおいはいまでも忘れられません。ジメジメしていたし、かび臭いというか、土のにおいがたまらなくイヤだった。嗅覚は最後まで残るというけど、いまでも覚えています」 戦況が悪化した戦争末期になると、息苦しさとともにある種、滑稽に思えることが真剣に喧伝されるようになる。 「戦況が悪くなってからは、女の人は顔を墨で塗って、竹槍を持って覚悟せよというようなことを言われました。でも、子ども心に竹槍で刺せるのかと怪訝に思っていましたね」 それでも、小学校の同級生の多くが疎開するなか、青羽家は浦和に残った。 「それなりの恐怖はあったけど、命すれすれとまでは感じていませんでした。後に思ったのですが、家族が多かったし、みんなで大丈夫、大丈夫と励まし合ったからではないかしらね。母がいて、父がいて、3人の姉がいて、とりわけ気丈だった2番目の姉がいて、みんなで大丈夫よ、大丈夫よと言ってくれたのです。孤独を感じることはありませんでした」
学校で知った終戦
警戒警報が発令されると、登校中でも授業中でも自宅に帰らないといけなかった。のり子はそれがイヤだった。 1945年8月15日。のり子は午前中、学校で静かに過ごし、家に帰ると玉音放送を聴いた父や母が泣いていた。その姿を見ながら、これで灯火管制もなくなるし、学校から途中で帰るようなこともなくなると思った。「なんだか一瞬、気持ちがほどけたような気がして軽くなりましたね」 でも、その一方で、「戦時中の大人は、ずっとつらかったのだろうな」と、父や母に思いを馳せていた。 日本の戦後復興の足取りは早くて軽く、まるで風のようだった。その風は、のり子にも吹いてきた。終戦の年、すでに映画作りが松竹大船撮影所で始まっていた。タイトルは「そよかぜ」(45年10月公開)。並木路子が演じる主人公の歌手になるまでが描かれた作品だ。 並木が歌った「リンゴの唄」はこの年、誰もが口ずさみ、一世を風靡した。希望と平和を象徴する歌だった。映画のなかに、並木と唄う合唱団の子どもたちがいる。そこにのり子もいた。 「えっ、戦争が終わったばかりなのに、こんなに早く映画を作るんだと驚きました。音楽の先生が、大船に行って歌ってこいと言うのです。そのころ、合唱団の子どもたちは疎開している子が多くて、私のような子らが集められたんです」 母に連れられて、モンペのような服を着て撮影所に向かったのり子は、「世の中はつい最近まで意気消沈していたのに、みんな心の底から平和を望んでいたのだなあ」と思ったことをいまも覚えている。 後年、並木にこのくだりを伝える機会があった。「奇遇だったわね」と言い合って懐かしんだという。