100人以上の戦災孤児を育てた「愛児の家」 多くの危機も乗り越えたママの愛情
終戦後、焦土と化した都市部には、多くの孤児がいた。その数、全国で約12万人。空き缶で物乞いをし、雨露をしのぐために駅に暮らす。そんな子たちを見かねて、個人で引き取りはじめた女性がいた。東京・中野の「愛児の家」の石綿貞代(さたよ)さんは、自宅に100人以上の戦災孤児を住まわせ、育てていった。三女の裕(ひろ)さん(89)に当時の様子を振り返ってもらった。(文・写真:ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
戦災孤児が育った家
耳をすますと、大広間から小学生たちが笑ったり、はしゃいだりする声が聞こえてくる。「もう夏休みですから、昼間でもみんないるんです。毎日にぎやかですよ」。そうスタッフの男性がほほえむ。 東京・中野区にある児童養護施設「愛児の家」。現在、未就学児から高校生まで三十数人が暮らす。設立は終戦まもない1945年11月。空襲などで家や家族を失った身寄りのない子ども=戦災孤児は、東京で2010人、大阪で1140人いた(1948年の調査)。当時、大勢存在した孤児を引き取り、育てたのが愛児の家だった。
「(家で暮らす戦災孤児は)一番多いときで100人以上いました。8割くらいが男の子。でも、あまりに汚いので、男の子か女の子かもわからない子もいた。きれいにしてみたら『あら、女の子だったのね』なんてことはよくありました」 愛児の家で長く子どもたちの世話をしてきた石綿裕さんはそう語る。終戦当時、中学1年生。家を設立したのは母の貞代さん(1989年に92歳で死去)だ。家では「ママ」とみんなから呼ばれた。貞代さんは戦後の混乱期に100人以上の子どもを育て、社会に送り出していった。 7歳で終戦を迎え、その後、愛児の家に引き取られた女の子が書いた作文には路上生活の厳しさが綴られている。 <私は上野で放浪して居ました。毎日毎日食べ物にこまり人にカンを持って廻りました。良い顔をしてくれる人も居れば、うるさい、しっし、あっちに行けなどと云われた事もありました。そんな時は本当に淋しく思いました。そうしながら毎日毎日新聞売りをして暮らしていました> そして、貞代さんに会ったときのことはこう記す。 <本当に優しそうな目のひっこんだ外人みたいなおばさんが「私の家へ行きますか」っていわれた時、なんと云って良いのやら、ただ嬉しさで一杯でした>