日比谷野音ライブまであと数週間――。結成35周年を迎えるガールズパンクバンド・ロリータ18号の35年の変遷を辿る
メンバーが固まり本格始動となった時代
――ただ、さすがに35年ともなると、かなりの変遷があるので、ここからはいくつかの時代ごとに分けて話を聞いていきたいと思います。まずは「黎明期」から。 ◆ロリータ18号・黎明期(1989~1990) 高円寺LAZY WAYSなどのライブハウスを中心にバンドを活動。オリジナルメンバーは石坂マサヨとギターのあいちゃん。恰幅の良いベースの女の人などもいたが、すぐに脱退するなどメンバー構成は流動的ではあったが、オリジナル曲を作り続けるなどバンドスタイルを模索し続けた時代でもあった。他方、雪駄と学校の上履きを左右互い違いに履き始めたり、全身の服を前身頃と後ろ身頃を全部逆さまに着るなど間違えてしまったことも多く、あるライブハウスの店長からは「君たちには相応しい対バン相手がいない」といった厳しい意見もあった。 マサヨ この頃はまだ本気でバンドを続けようとは思っていなくて。バンドも好きだけど、好きな人のことで頭がいっぱいな頃(笑)。 ――まだ16~17歳だったらごく自然な。 マサヨ そう。でも、やがて高校を卒業する前後に、東京の他のライブハウスにも出るようになって。下北沢屋根裏、新宿アンチノック、新宿ロフトとか。楽曲のテープ審査みたいなものを受けて、それに合格すると、まず「昼の部」からステージに立たせてもらえるっていう。ただ、バンドが本格的に固まったのはこの後なんですけどね。 ◆ロリータ18号・萌芽期(1991~1992) 当時のドラム・あかねちゃんの紹介で、大学とはまったく関係ないものの「スタジオをタダで使わせてもらえる」という理由から法政大学の音楽サークルに参加。そこで別の音楽サークルに参加していたエナゾウ(後のギター/現:エナポゥ)と石坂マサヨが出会い意気投合。やがてギターとしてエナゾウが参加。ロリータ18号が萌芽した時代だった。 一方、石坂マサヨのボーカリゼーションは、特に外国人から評価が高く、イギリス人が自国にロリータ18号のサウンドを持ち帰り、犬や猫の鳴き声と合わせてサンプリングした楽曲を発表。後に「カウス(語源は「イシザカウス」)」と名づけられたこの打ち込みの音楽は、世界中で評価され日本のパンクバンドの多くもカウスに傾倒。「あれはパンクじゃない」「いやパンクだ」など、キッズの間で物議を醸し出すことにもなった。 ――同時期にマサヨさんとたこちが出会うことにもなったんですよね。 たこち そう。当時、私は下北沢の「朝日屋洋品店」っていう古着屋さんで働いていたんですけど、そこにマサヨもアルバイトで働くようになって。元々私はCOBRAが大好きでパンクロック全般大好きだったから意気投合して。ただ、この頃はまだロリータ18号のいちファンに過ぎず、応援する立場でしたけどね。 ◆ロリータ18号・成長期(1993~1996) エナゾウやたこちとの友情を深める石坂マサヨだったが、まだまだ模索中。エナゾウの豊かな感性がロリータ18号に大きな影響を与え、後に参加することになったベースのキム☆リン、ドラムのアヤ坊と合わせて1994年頃には完全にバンドが確立。大きな成長を遂げた時代でもある。BENTENレーベル(ガールズバンドを多くリリースするインディーズレーベル)でのリリース作品の中にはアメリカでのレコーディングを行ったものもあり、それに合わせてアメリカでのライブツアーを敢行。バンの荷物をすべて盗まれるといった憂き目に遭いながらも、メンバー全員ブレることなくライブを行い続けた。 マサヨ キム☆リンは「朝日屋洋品店」界隈で出会った人。口調はクールなんだけど、内に秘めた熱いものがある面白い人だったので「ベース弾いてもらえない?」と頼んだら、「うーん、やったことないからなぁ」と言いながら、翌日にはすぐベースを買いに行ってくれた(笑)。ただ、このベースは電池を入れるような変な楽器で、キム☆リンも「間違えちゃった」と思ったらしく、すぐに買い替えることにもなりました。 たこち アヤ坊が入ったのはその後だよね。 マサヨ そう。アヤ坊も法政大学の音楽サークルで出会ってドラムとしてメンバーになってもらったんです。 ――マサヨさん、エナゾウ、キム☆リン、アヤ坊の4メンバーが固定され、完全にロリータ18号が出来上がった感じはありましたか? マサヨ いや、当時はまだ成長中で全然アマチュア。この後BENTENレーベルに入って、それから少しずつ固まっていった感じですね。