日比谷野音ライブまであと数週間――。結成35周年を迎えるガールズパンクバンド・ロリータ18号の35年の変遷を辿る
1980年代後半、日本の若者の間で空前のバンドブームが巻き起こりました。ブームに連鎖するように多くのバンドが誕生しましたが、その多くはブーム終焉と併せて姿を消していきました。一方、この時代に結成され、以降35年間一度も活動を止めずにライブを行い作品をリリースし続けるガールズパンクバンドがロリータ18号です。一時はメジャーレーベルと契約し、お茶の間を賑わせる人気を誇り、またラモーンズのジョーイ・ラモーン、トイ・ドールズのオルガといった世界に名だたるパンクロックの大御所のプロデュースを受けたことでも知られる彼女たちですが、来たる11月24日には結成35周年を記念した日比谷野外音楽堂でのライブを間近に控えています。ここでは、結成時からのオリジナルメンバーでボーカルの石坂マサヨと、バンドにとって欠かすことができない名脇役でベースのたこちに話を聞き、35年に及ぶ変遷を辿ります。 【全ての画像】ロリータ18号、35年の変遷を写真で見る(全20枚)
ケンヂとクラッシュ(ギャルズ)で人生が変わった
――筆者はロリータ18号の1989年の結成前後から存在を知っています。当時からすでにバンドのスタイルが確立されていたように記憶していますが、当時マサヨさんは16歳くらいでしたでしょう。その若さでバンドを始めることにした経緯は一体なんだったのでしょうか。 石坂マサヨ(以下、マサヨ) 私は子供の頃からコマーシャルとか音楽が好きで。小学2年生くらいから本屋さんに行って『宝島』とか『広告批評』みたいな、今思えばカルチャーっぽい雑誌を立ち読みするような子供だったんです。親はそういうクリエイティブな仕事をしているわけでもないし、誰かに教え込まれたわけでもなく自発的にそういう雑誌を「面白そうだ」と見るような子供だったんです(笑)。そんな中で、戸川純さん、忌野清志郎さんが好きになり、後に本屋から「友&愛」っていうレンタルレコード屋さんに行く場所を移し、そこで『宝島』に出てくるようなインディーズのバンドのレコードとかも聴くようになりました。やがて中学生くらいになると、ケンヂ&ザ・トリップスの存在を知り「これは超絶ヤバいぞ」と一目惚れして。ケンヂさんの鋭角な感じというか、つり目で頭ツンツンしていて、ボーカルも曲も全部カッコ良くて。そのケンジさんからパンクロックを知り、そこからセックス・ピストルズを聴いて、もうすべてが決定しました(笑)。 ――何歳くらいのことですか? マサヨ 15歳くらい。ただ同時にクラッシュにもハマった時期で。パンクバンドのクラッシュではなくて、女子プロのクラッシュギャルズ。長与千種が好きで、親友で後に一緒にロリータ18号を始めるあいちゃんっていう子と一緒に「私がライオネス飛鳥で、あいちゃんは長与千種になろう」と言い、全女(全日本女子プロレス興業)のジムにも訪ねたこともありました。でも、その練習風景を見て、あまりに過酷で「これは死ぬな」と思って、人生初の挫折(笑)。その後、死ぬのはイヤだから女子プロは諦めて、あいちゃんと「ライブやりたいね」「ケンヂのコピーバンドがやりたい」となり、ロリータ18号の前身バンドを組んで新宿JAMで初めてライブをやりました。でも、このときは全部コピーだったし「これからずっとバンドを続ける」といった気持ちはまったくなく、まして35年間もバンドを続けるなんて思ってもみませんでした。 ――それでも本格的にロリータ18号を始めることにした理由はなんだったのですか? マサヨ なんか「呼ばれてる」感じがあったんでしょうね。私にとっての初めてのライブで、知り合った人から別のライブに誘われ、「じゃあ、やってみる?」みたいな感じで、本格的にバンドを始めることになりました。最初は着物を着て変な人形を持ってステージに立ったりしてたけど(笑)、その後に正式にロリータ18号を始めることになった。これが1989年ですね。 ――たこちはこのときはオリジナルメンバーではなかったんですよね。 たこち そう。マサヨと出会うのは、その2~3年後なので、ロリータ18号の存在も全然知りませんでした。でも今思えば運命的な感じはしますね。